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TAR/ターのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

「隙がなさ」と「雑さ」をどう考えるか?そんな事を感じた。
映画は、エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞を総ナメにする「女性」天才作曲家/指揮者の物語(「女性」としたのは「彼女」の性自認が男性のように描かれているから)。「彼女」は天才であるが故に?ある意味尊大なのだが、その「尊大さ」がアダとなり「事件(女性スキャンダル)」を引き起こす。そして社会から「キャンセル」されていく…。

その作風はチャレンジングにして隙がない。冒頭からエンドロールを持って来つつ、よくわからない民族音楽を流す展開しかり、映画が始まってからも延々トークショーでの「音楽語り」を繰り出す展開しかり。

また、ラストにたどり着くまでの各シーンに込められた緻密な意味合いしかり、ラストの「ひと狩り行こうぜ!」な「超展開」しかり。「キャッチ―」ではないがよく観れば「隙のなさ」に圧倒されるという作りになっている。

ただ。自分のような「シネフィル(映画愛好家)」でもなく「クラシックファン」でもなく、名前覚えが悪い(泣笑)人間からすると、はたして、それらが「功を奏しているのか?」という気にもなった。

いやさ。クリスタとか、セバスチャンとか名前だけ言われても。。「え?誰だっけ?」となってしまう(笑)しかも、クリスタに至っては「女性スキャンダル」の重要当事者であるにも関わらず、ほとんど画面には登場しない。また、セバスチャンを「突如、副指揮者から解任する!」と言うが、「副指揮者って何?」と思ってしまって。それ、どんだけ重要なの?と。その仕事風景が描かれるならまだしも、座って話してるところしか描かれないわけで。。自分のような人間は、けっこう、つまずくところも多かった。

いや、自分だけの話ではない。「キャッチ―ではないがよく観れば、隙のなさに圧倒されるという戦略」を取ることで、いわゆる「考察班」の「考察欲」を変に誘発してしまったところがある。

実際、ネットには「考察班」の「ぼくのかんがえたさいきょうのこうさつ」が躍ることとなる。別にそれはそれでいいし自分も「なるほど~」と思わされる部分が多かった。

けれど「考察」というものは、えてして細部の読み解きで満足してしまうものでもあって。そういう「考察」が着地するところといえば「才能があっても傲慢になるのはよくないという事が描かれているのです」とか「小学生の道徳の教科書」にでも書いてあることになるのであって、、、

そんな感慨に着地するために、2時間半のストーリーや、隙のないスクリプトや、リッチな音楽や、ケイト・ブランシェットの”神がかった”演技が投入されたのか?
だとしたら「コスパ悪くね(あえて、そういう人達が好きな言葉でいえば)」と。

なので、その「隙のない」戦略は功を奏したのか?と。

また「隙のない」展開でありながら「雑さ」も同居している。それをどう考えるか。
一番気になったのは、映画のテーマを「くっきり」させるために盛り込まれた「比喩」で。具体的には「ショーペンハウエルの話」と「フルトヴェングラーの話」で。

曰く「ショーペンハウエルは、隣人の騒音にイラ立ち階段から突き落としたが、これをもって彼の偉大な哲学までキャンセルすべきであるか?」
曰く「フルトヴェングラーは、ナチスを賛美したとされる(実際には違うそうだ)が、これをもって彼の偉大な音楽までキャンセルされるべきか?」つまりは「作者と作品は同列か?=作者が愚かなら作品も愚かなのか?≒キャンセルカルチャー問題」を映画内のセリフとして打ち出す。

けれど、この比喩は適切だったのか?かえって分かりづらくなってないか?
実際、映画の中では「不祥事(性加害?)」を起こした主人公の作品を「世に出していいのか?」みたいな話題はほどんどない。あるのは、彼女が起こしたことと、周りの反応が中心で。

だとすると映画のポイントは「権力構造」の話なんじゃないか?言い方が「お堅い」ならば「偉い人と、偉くない人のやりとり問題」と言ってもいい。

映画を観ていて、このリディア・ターという人は「率直な人」なんだろうなと思った。そういう風に造形されているなと。で、自分は、自分がそう生きられているかは問題だが、「忖度する人」よりは「率直な人」が好きだ。

けれど「自分が名声や権力を持っている事」について「ルーズな認識」なんだろうなとも思った。

なんというか、人を責める時には「自分は有名人なんだぞ」「権威があるんだぞ」と権力をバックに匂わせるくせに、「色恋」や「年少者」に関しては「自然と愛が生まれた」とか「大人の意見に論破されて涙目で帰った」みたいな認識になっている、と。

相手が「この誘いを断ったら自分の未来はないな…」と思い誘いにのっているのかも?という視点がない。もしくは、相手が「権威ある年長者と論争しても自分の思いは届かないんだ…」と思うから最後まで自分の胸の内を吐露しないのかも…という視点がない。
「自分が銃を突き付けながら質問しているから、相手がYESと言ってるだけかも…」という視点が、都度都度、都合よく消去される。

だからこそ「想定外」の事が起きた時には、自分が持っていたものの「大きさ」に焦り「ヤバいメールは全消去!」みたいな「セコい」振る舞いに至る。

つまり、テーマにしているのは「権力構造」の話であって。「作品と作者は同列か?≒キャンセルカルチャー批評」とは、また違うんじゃないか。それが先に出した「雑な比喩」で見えづらくなっていないか?

別の言い方をすると。実際の映画では、ドアの枠越しのター、棚の枠越しのター、窓枠越しのター、など「枠の中のター」を遠目から映す映像が幾度も印象的に描かれる。いわば彼女が「絵画(額縁の中の絵)」となっている様が描かれる。つまりは、「ターは作品を生む」だけでなく「ターが作品となる」事態が描かれる。だとすれば、「ターという作品」が醜い行動をとれば当然「絵は醜くなる」。だからこそ社会から「醜い」と批判を浴びる。この「構造」が彼女本人には見えていない。そんな様子が描かれる。

だからこそ、映画の後半には、滝越しの若者、窓越しに並ぶマッサージ嬢など「ターが枠の中を見る」という展開が描かれる。そして自分が置かれていた「権力構造」、自分が「絵画にされていた」という構造に気づき嘔吐するという展開が描かれる。

けれど、この「隙のない(緻密な)展開」が、「雑な比喩の導入」によって見えにくくなっていないか?

ただ一方で、その「雑さ」が功を奏している部分もあって。というのも、もともと作品は「男性指揮者」が主人公の想定だったそうだ。だからこそ脚本は「男口調」で書かれている。

ただ、配役を決める段になって「ケイトしか無理じゃね?」となり「女性指揮者」になったという…。なんとも「ご都合主義(雑)」な話だが、これにより「推理」の余地が生まれたことも確かで。

というのも、たとえば今、国会を見れば、(誰とは言わんが)姿形は「女性」でも実質「おっさん」にしかみえない議員が多く。。姿形は「女性」だが、女性や、若者や、マイノリティには「上から目線」で。どないなっとんねん?と。

けれど、彼女たちも最初からそうだったわけではないんだろうと。圧倒的「男社会」の中で、サバイブしようと思ううちに「そうなった」んだろうと。そんな推察が成り立つ。映画のリディア・ターにもそんな推察が重ね合わせられる。
名作曲家も、名指揮者も男ばかりのクラシック界でサバイブしようと思ううちに、ああいう「尊大な感じ」になってしまったんじゃないか?と。

ようは、見た目には「権力の加害者」にみえるターも、ある意味では「権力の被害者」なのではないか?と。ご都合主義的(雑)なキャスティングによって結果的に「深み」が得られたんじゃないか?と。そんな事も思う。

じゃあ、この「雑さ」は結果的に、よかったのか?
とう言うと「どうだろう?」というのが自分の思うところで。というのも、あの「超展開のラスト」をどう考えたらいいんだろうね?と。

別に自分は「純粋クラシック=格が高い」、「ゲームクラシック=格が低い」とは思っていない。かといって、世界で売れる「モンハンのゲーム音楽」こそむしろ評価されるべき!とも思わない。正直、「なんでもいい」(笑)。だから、その手の話をしたい訳じゃない。

そうではなく。彼女の行動が、自分が起こしたことに対して「責任を取ったのか?」ということで。

一見すれば、世の中の仕組み(権力構造やSNS)によって追い落とされたターは、自分の初発の志を「若いころ観た音楽番組のビデオテープ」を見返して思い出し、新天地でそれを実現しようと奮闘しはじめた…と理解できる。

けれど、それは「彼女の心の中の物語」にすぎないのではないか?彼女の中では、それで「成立」してるんだろう。けれど、問題は、彼女が「権力構造のせい」だったとしても、「他人」に対して「やってしまった」ことについてであって。
これについては、自分の中で整理がついても、他人の中では整理がつかない(何しろ命が失われている)、、なんてことはザラにあって。

それに対して、どう思っているのか?映画では、その視点が消去されている。
自分が未来に向けて「原点回帰」することは描かれるが、自分が(権力の被害者とはいえ)過去にしてしまったことについて、どう落とし前をつけるかについては描かれない。もちろん「権力構造」から身を引くことで、これまでを反省し、これからに力を尽くそうとしたのだとは読める。

けれど、正直、逃げて、リセットボタンを押しんじゃないか?とも思えてしまう、、
この展開は、意図的というよりも、「雑な比喩」を導入してしまったせいなんじゃないか?それに自らが引っ張られてしまったせいなんじゃないか……?

つまり「キャンセルされた人間の再出発」という(今っぽさを盛り込むために導入した)視点に引っ張られ、「権力の被害者との向き合い」という視点が消えてしまったんじゃないか、、と。

そんなことを思った。

(ただ。一応言っておけば、自分は「天才に何でもかんでも求めるのはどうだろう?」と思う人間で。言ってしまえば「ええやん!ええやん!オモロかったら何でもええやん!=令和ロマンのネタにおける”吉本の人”」のような人間ではある(笑)。ただ、そればっかりで、世の中、押し通せないこともまた事実であり、、、と。だからこういう事を書いている、と。。)。
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