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ケイコ 目を澄ませてのしののレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.3
ただただ素晴らしい。何がすごいって、本作を鑑賞する際の「目(と耳)を澄ませる」体験こそ、主人公の感覚や感情に寄り添い想いを馳せる体験であって、つまり他者とのコミュニケーションのあり方そのものになっていること。彼女にとってボクシングとは何か、何の説明もないのに何だか分かる感覚にド感動。

この映画はとにかく音を大事にしている。何かを書く音から始まり、続いてリズミカルなボクシングジム内の音響、荒川区の環境音。それらはリアルな没入感を与えてくれるだけでなく、何より観客に五感を研ぎ澄まさせる効果を与える。それにより、この音が聴こえない彼女はどう感じているんだろう、という対象への興味に繋がるのだ。

そして特徴的なのが、主人公とその周りに生きる人々の生活空間をものすごく丁寧にパッケージしていることだ。ケイコさんの日常ルーティンを映す場面の積み重ねにより、気づけば彼女を目で追い、彼女が感じている事に想いを馳せるようになっている。すると僅かな動作や表情の違いが大きな意味を持ってくる。

そこに周囲の人の存在も絶妙に入れ込んでいる。例えば、会長が病院を去っていく場面では、あえて次の患者の名前が呼ばれるまでを映している。こうした何でもないようで丁寧な日常の切り取り方がじわじわと効いていて、主人公を気にかけてくれる他者の存在というものの優しさ尊さが立ち現れる。

つまり、本作の主軸はボクシングの勝敗ではない。生活の過程としてのボクシングだ。主人公がなぜボクシングをやるのか、今後どうしたいのか、ということ。そしてそれは最後まで彼女自身にも明確に分からない。けれども、こうして彼女とその周囲に「目を澄ませる」体験により、ボクシングがとても大切な居場所であることだけは確信できる。それを最も実感させるのが、会長と何気なくシャドーボクシングを始める場面で、ここはわけもわからず涙が出てきた。彼女が真に何を感じているかは分からないはずなのに、「ああこれは本当に大切な瞬間なんだな」ということが、彼女と同じように実感できてしまう。白眉の場面だと思う。

そして同時に、これはボクシング映画というよりコミュニケーション映画なのだと確信した。ひとりでリングに上がり相手と対峙するスポーツに自分の居場所を見出していた主人公が、しかし確実に周囲の人々を気にかけ、そして気にかけられている。その象徴的な場面でもあるからだ。思えば、本作ではこの「気にかけ、気にかけられる」関係性がいくつも登場する。主人公と会長、トレーナー、家族、職場の同僚に後輩……。そして我々観客も、前述の「目を澄ませる」体験により、気づけばその関係性の一部となっている。その極致に主人公とのシンクロ体験があるのだ。

ここで重要なのは、最後まで彼女が心の底で何を感じて何を思っているかは分からないということだ。つまり、他者を理解し得た故の感動ではなく、他者に寄り添い想いを馳せた故の感動がある。ケイコさんと同じように、観客が「目を澄ませる」ことそれ自体が豊かな体験として提示されているのだ。なんという誠実さ。そう考えると、何度か登場するリズミカルなミット打ちはとても象徴的なモチーフだと思う。聴者は音でそのリズムを感じるが、それをケイコさんは体全身で感じている。音の有無に関わらずリズムは確かに存在し、研ぎ澄ますことでそれを感覚しシンクロできる。本作の映画体験そのものではないか。

そしてラスト、リングの外で「敵」と会う事で、本作におけるボクシングは更に普遍的なものへと解体される。まるで、「結局のところ、それぞれがそれぞれの人生を生きていくということでしかないのだ」とでも言うようだ。そして彼女も我々も、これからも「目を澄ませ」あって生きていくはずだし、そうするべきだ。確かに分かりやすいカタルシスはないけれども、しかし映画ってこういうことだよなと思わせる素晴らしい作品だった。
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