umisodachi

ケイコ 目を澄ませてのumisodachiのレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.8


耳が聴こえないケイコはプロボクサーとして2戦目に臨もうとしていた。しかし、ジムの経営状態は芳しくなく……。

あらすじ短!!というのも、この映画はストーリーの起伏があまりないのだ。ケイコの日々を淡々と映し出す。それだけ。それだけなのに、1秒たりとも逃したくないほど熱中してしまった。映画として素晴らしいんだもの。

まず、音。私たちが日常で囲まれている音を鮮明に際立たせる演出。ミットを打つ音、歩く音、街の雑音……ありとあらゆる音が存在しているが、ケイコには聞こえていない。そのことを静かに、しかし確実に実感させる巧みな演出だ。

当然のことながら、ケイコはほとんど何も言わない(言えない)。ほぼ手話を使えないジムの人たちとはジェスチャーや文字で意思疎通し、ことあるごとにノートにメモを取っていく。我々は自然と、ケイコは意志が強くて無口な努力家なのだと印象付けられる。

しかし、徐々に印象は変わっていく。ケイコはジムの人間だけではなく多くの人と触れ合うわけだが(我々の日常がそうであるように)、その過程で彼女の中にある感情や言葉が少しずつ溢れ出していくからだ。

家族と関わり、職場で手話が話せるスタッフと関わり、ジムの閉鎖に戸惑い、友達と女子会をし、試合に立ち向かっていくケイコ。ボクシングを辞めさせたい母親に抗い、共に暮らす弟にはイラつきを隠さず、ノートには饒舌に、ときにコミカルに感じたことを書き綴り、友達とは(手話で)恋バナに花を咲かせる。無口で我慢強い特別な女性などではない。我慢強いのは間違いないが、感情豊かで面白いことが好きで、家族にはちょっと甘えている若い女性なのだということが分かってくる。極めて平坦に見えるストーリーの裏で、鮮やかにケイコという人物が浮かび上がってくる(それと同時に、観ている側の思い込みを裏切っていく)。

さらに、ケイコを追い続けると同時に周囲の人々も丁寧に描写していく。ジムのオーナーが受けるインタビューや次のジムのオーナーの対応。最後の試合相手の言動。弟の彼女の態度。ケイコを「耳が聴こえない人その1」ではなく、「耳が聴こえないという要素を持った1人の人間」として扱う彼らのような人物が映し出されていく一方で、ケイコを「耳が聴こえない人その1」または「ボクシングジムに通う手のかかる女性その1」として扱う人間も当然存在する。登場人物のすべてが、果たして自分はどちら側だろうと、誰かのことを「その1」として扱ってはいないだろうかと観客に問いかけているようだ。

特に印象に残ったのは、ケイコを見つめる3人の若い男性だった。ひとりはボクシングジムで、ひとりは職場で、ひとりは家庭で。前半ではほぼ何も言わずにただケイコを見つめていた彼らが何を思っていたのかは後半で明らかになるわけだが、そのリビールの仕方も、3者の対比もさりげなくも鮮やかで素晴らしかった。ひとりは言葉で、ひとりは手話で、ひとりは態度で。言葉を聞かないとわからないこともあれば、言葉はなくてもわかることもある。でも、重要なのは言葉を聞かなくてもわかろうとする意志なのだろう。決めつけるのではなくてね。

すべてが緻密に考え抜かれている上に、映画ならではの演出が光る傑作。クオリティでは2022年に観た映画の中でもトップクラスだった。最後になるが、ケイコを演じた岸井ゆきのは当然のことながら見事だった。
umisodachi

umisodachi