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N号棟のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

N号棟(2021年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

「この手」の映画はムダに観ている方の人間で。なんというか、アイドルが主演で、霊の出そうな所に手持ちカメラで分け入る映画というか(笑)TUTAYAの一番隅の棚の下の段にありそうなホラーものというか(笑)

そういう映画にしては「手数」というか「観たことのないビジョン」が意外と多いなと。「団地住民たちの雑魚寝」とか。ポルタ―ガイストと同時に団地の各部屋から人が続々出てきて暴れるシーンとか。

けれど、それ以上に「なるほど」と思ったのは、団地を使えば日本でも「ミッド・サマー」ができてしまうということで。これはなかなか面白い「発見」だなと。

本作は、2000年代初頭にワイドショーなどでよく取り上げられていた岐阜の「ポルタ―ガイストマンション」がモチーフになっている(食器棚から皿が勝手に飛び出す様子などを自分もうっすら覚えている)
主人公は大学に通うJD(萩原みのり)。彼女は、心に不全感というか閉塞感を感じている。そんな中、元カレ(倉悠貴)と、その今カノ(山谷花純)と共に「きも試し感覚」で「廃墟団地」を訪れる。
だが、行ってみると廃墟のはずが「住人」たちがいた。驚く3人。それでも「いや、ここに入居を考えておりまして」とデマカセを言って取り繕う。すると、彼らから歓迎されることに。
しかし、次第に違和感を感じるようになる。突如、「教祖」のような存在(筒井真理子)が出現。「霊の存在を信じなさい」なと、怪しげな事を言い、信じない主人公に対しては「ポルタ―ガイスト」を発動。それが原因で団地から飛び降りる住人まで発生する…
当然「もう帰ろう」となるはずが、今カノから順に、向こうに取り込まれていく。「私は帰らない」と…。なぜそうなっていくかと言えば、住民たちが生者も死者も一体となって「つながっている」からだ。
この価値観に「令和の孤独や不安」を抱える大学生たちが引き込まれていく。そして、最後まで抵抗していた主人公も…というストーリーとなっている。

たしかに団地は、令和の世界からは取りこぼされた「昭和」のような場所だし、今の我々とは違う時間が流れているような感じがする。
だからこそ、そこには、今の我々には理解できない「しきたり」があり、それであるが故に、今の我々の苦悩を癒すことができるのだ、と。
そんなヴィジョンを作ることができると。

ただ、ミッドサマーとは「外」の描き方が違うため感じ方も結構違う。
あちらの場合は、現代人に向け、「古代からのしきたり=近代社会とは別のあり方をしたルール」を突き付けることで、「今の社会はこのあり方しかない」という「閉塞感」を打ち破る効果があった。だからこそ、そこには「浄化」というか「解放感」があった。

けれど、本作で描かれている「外」とは「昭和幻想」であって。映画は「抱擁」や「雑魚寝」を印象的に描くが、ようは「昭和はもっと人と人とがつながっていた」と言いたいのだろう。
だから、そこに戻れば「令和の孤独」から癒されるのではないか?と。ただ、それは「スパン」が短すぎる。向こうが「近代社会が生み出す閉塞感」を打ち破るヴィジョンなのに対し、こちらは「ちょっと昔の近代へのノスタルジー」に留まっているようにみえる。

けれど、今の日本人が望んでいるのは「こういうこと」だという気もする。べつに近代を超える「別の在り方をした社会」を目指しているわけではなく、「かつてあった世界に安住できればそれでいいのだ」と。

実際、日本ではGAFAのようなテック企業も生まれなければ、DXも進まない。「昭和」が今も続いているし、別にそれを変えたいとも思っていない。むしろ、そちらに安住したいと思っていると。

その意味で言えば、「N号棟」のNとは「NIPPON」の「N」だと言うことなんだろう。我々は「廃墟団地」に住んでいるし、住んでいたいのだと。そんなことを思った。
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