きゃんちょめ

X エックスのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

X エックス(2022年製作の映画)
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【愛について】
愛は、「実体と性質」の問題であると思う。そこで以下の二通りの考え方を書いてみる。一通り目は事実問題としての愛について考察し、二通り目では当為問題としての愛について考察する。

⑴.【「私のどこが好きなの」問題:愛の事実問題】
Aさんに「私のどこが好きなの」と言われBさんが「あなたの二重まぶたが好きです」と答えたとしよう。するとAさんは「ひとえまぶたになったら嫌いになるのね」と言う。すると慌ててBさんが「まぶたなんかやっぱりどうでもいい。あなたの優しさが好きなんです」と訂正するだろう。するとAさんに、「じゃあ私が怒りっぽくなったら嫌いになるのね」と言われる。するとBさんが「たとえあなたがどうなったとしても、あなたが好きです」と言いたくなる。これは相手の「様態」または「属性」がどのようになったとしても「実体(=さまざまな性質をまとめ束ねるコアとなる基体substratum)」を愛するとBさんは言いたいということである。結婚式の時に神父さんに「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」とカタコトの日本語で聞かれて、それに同意していたら、なおさらBさんはそう言いたくなるだろう。しかし、「たとえあなたがどうなったとしてもあなたが好きなのです」と言うためには、「実体」というのが経験できるのでなければならないはずなのだ。では、「実体」というのは経験できるのだろうか(=属性にあたる述語は経験できるけれど、実体にあたる主語は経験できるのだろうか)。それは、「実体」の定義によるだろう。「性質を全て集めて経験したら実体を経験したのと同義だ」ということにするのは、得策とは言えない。なぜなら、性質はそもそも関係的であるがゆえに無限にあるので、それは無理だからである。「五感があるから性質は5つに列挙できる」、わけがないのだ。そんなに性質は甘くはない。例えば、リンゴの「性質」に話をかぎってみたって、数日経てばどんどん変わっていくし、日の出のときと日中と日没のときとで、リンゴの性質はどんどん変わっていくから、諸性質を全部を経験し尽くすことなどできない。また、リンゴでさえ叩く棒の材質によってそこから出てくる音を変えるのに、ましていわんや、人間の場合では「ある人と会っているときにはしかじかの性格になる」というような諸性質まで、数え上げられるわけがないのだ。つまり、やはり「性質の列挙」は無理なのである。すると、「たとえあなたがどうなったとしてもあなたが好きです」とは言えないということになり、それはつまり、「一般に、人は相手そのものを愛することはできない」という衝撃の結論になってしまうということなのだろうか。否、おそらくそれは言い過ぎである。人は、他の人間の「実体」という概念をまずは「肉体」として抑えている。だから「人の経験は実体に届いている」と言うべきなのだ。しかもその肉体とは、物体としての人体ではなく情感性を帯び、情緒的で、敏感な、生きていて、それ独自の固有の仕方で動きつつある、「肉体」である。人は経験の中でもこの種の経験を特権的に「実体の経験」と呼んでいるのだと思う。私は、「人の肉体を経験することが人の実体を経験することの全てである」と言うつもりはないが、しかし、「肉体」の経験は「実体」の経験の主要部に届いているとは言いたいのである。つまり、「実体」の典型とは「肉体」であると言いたいのだ。マッチングアプリを使って属性だけで相手を選んでも、いざ会って見るとこの人は愛せないな、となるのは、そのときその人は、刻々と移り変わる属性を統合している実体を目の前にしているからである。このことから私は、「人の経験は実体に届いている」と言いたい。肉体の経験は、実体の経験全体を悉く覆い尽くしているとは言わないが、主要部はガッチリとつかまえているのである。

⑵.【愛は事実ではなく当為であるという別の考え方:愛の当為問題】
次のような考え方もある。たとえ相手の何を愛したとしてもそれは相手の諸性質のうちのいくつかを愛したことにしかならず、相手そのものを愛しているとは言えないのだから、一旦、「一般に、人は相手そのものを愛することはできない」という衝撃の結論をまずは受け入れてしまおうという方針である。そのうえで、愛とは、「相手そのものを愛せてはいないのにもかかわらず、たとえ相手がどのようになったとしても相手に対する態度を変えないことで、その相手そのものを愛していると語り続けると決意すること」だと考えるのである。つまり、「愛が成立しているかどうか」という問いは、「事実の問題(=相手そのものを愛せているのか否かの問題)」ではなく「当為の問題(=相手そのものを愛していると語り続けるべきと決意するか否かの問題)」なのであり、そのような責任を引き受けていること、すなわち、そのような義務を自己に課しているということそのことをもって、「愛が成立している」と言える、と考えるのである。この立場は、そういう決意の中にしか本当の愛はないと考えるのである。言い方を換えれば、この立場は、「愛があるかどうか」は、「実際に相手そのものを愛しているかどうか」によって決まるのではなく、「相手そのものを愛していると語ると決意するかどうか」によって決まるという立場である。この立場は、この「実体と性質をめぐる問題」の焦点を、事実から当為へとズラすことで解決している、と言える。この立場からすれば、実体への愛は事実として「在るもの」ではなく価値として「在るべきもの」なのである。「太郎の性質はどうであれ、太郎そのものを愛している」と人が言うとき、「太郎そのもの(=太郎の実体)」とは論理的に経験できず愛せないものだが、それにもかかわらずその「太郎の実体」を愛していると語ろうと決意することが実は愛の本質である、とたしかに言えるかもしれない。


⑶.【まとめ】
そういうわけで、「事実として人の実体を愛することができるのか」という問いに対しては、「実体の典型は肉体であるから愛することができる」と答えるか、あるいは、「できない。にもかかわらず実体を愛すると約束する決意こそが真の愛だ」と答えるか、という少なくとも二つの答え方があることになる。
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