AKALIVE

わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯のAKALIVEのレビュー・感想・評価

4.7
「『この時代に活躍した女性がいるだろう』という想像から入ってね」とは桂壮三郎監督の言葉。

「その時は伊藤千代子は私は知らなくて。名前は聞いてましたけどね」とも。

私もよくは知らなくて、予備知識だと、彼女(伊藤千代子さん: 1904~1929)は日本共産党の女性党員第1号。因みに日本共産党は1922年に創立。現在100年の節目になる。1928年3月に思想弾圧され、収監、拷問により精神病を発病し、急性肺炎により1年半後、亡くなった。享年24歳。

自然科学の人為的ミスと社会科学の人為的ミスを描いてさえいる、ノーラン監督『インターステラー』にびっくらこいた私は、それでも科学を信じたり、他者を想いやる為の自分の声を、見い出し、押し上げることに賛成だ。 だってね、いつだって沈黙は(出所不明の)「思想警察」のせいだ。

閑話休題 …

映画観賞後、調べると、1927年、女工ら労働者による30日のストライキのサポートをする為に、自ら出向いての指南、激励が伺い知れた反面、1928年の実際の市ヶ谷刑務所は「思想犯」はお互い連絡が取れないように、両隣に「一般犯」を収容していたのだ。つまり、隔房であり、映画的な【嘘】。どうやってコミュニケーションを取るのか。映画以上に驚くべき方法で取っていたのだろう。 人と人との連帯。

『ショーシャンクの空に』や『沈黙 -サイレンス-』を想い起こす、自由のための闘い。 テーマは共産主義の偉大さや共産主義者弾圧の酷さなどではなく、いつの時代にも民主主義を忌み嫌う者がいて、誰かが自由に発言することを許さない奴等によるあらゆる暴力から逃れるためには闘うこと。エリア・カザンの『波止場』は必見!

天皇主権の頃には、切実な闘争だったけれども、今のような国民主権体制になり、そこからさらに時を経て、1950〜1960年代的な余暇と消費を巡る「人類の観客化」と「スペクタクルの社会」。今や気づけば、「総“市場”化」する社会による「疎外される感覚」という歯が立たない状況へと移行している。「コンビニ弁当美味しい! 」、「マクドナルド最高! 」てね🤬 パリに出現した落書きを想い出せ。ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』も必読だ!

閑話休題 …

私ˣ(映画観賞中の心の声)「最近、“スペクタクル”について考えているから、この映画も、ある種の見世物になってしまったら、伊藤千代子さんが何と闘っていたのかも、今を生きる人々が日々抱える“自分の声を見失う”という(見えづらい)《問題》からも疎外され、魂が行方不明になるんじゃないか…」とか、私ᵀ(観賞直後)「この映画を観て、ガス抜きやら、何らか、満足感やらで、魂が抜け殻になってしまうなら、“スペクタクル”を自覚しているリチャード・リンクレイター監督『スクール・オブ・ロック』や『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』やその監督とのタッグで広く知られるジャック・ブラックがベックとステージで『セックス・ロウズ』を歌っているYouTubeの動画や、キレッキレで踊るダンス系の動画、そして、解けない謎 = 『ヴァージン・スーサイズ』などを観て、自分を安心させようとかごちゃごちゃ考えていたのだけれど、ふと私ᶜ(数日後)「また観たいな」と想っている。

タルサ人種虐殺から100年経っても賠償を求める人々同様に、治安維持法から100年経っても、市民であるならば、我々は賠償を求めないとならないのだろう。

閑話休題 …

主演の井上百合子の眼の演技が素晴らしい。純粋な喜びだったり、悲しみの眼 だけじゃなくて、喜んでいても不安でいっぱいな眼、悲しくても屈しない眼。4パターン以上の眼の演技が素晴らしいのだ。 褒めすぎだろうか? 千代子さんの眼の前に心細げに立つ、今にも倒れそうな人たちを、真っ直ぐ、観るから、映るのか? という眼なのだ。

音楽はコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』で印象的な「主の御手に頼る日は」風なメロディときた!

ちらっと登場する小林多喜二は本当にこの世のものかという、壮絶な拷問を受けたという。彼の遺体は全身が無数の内出血、両太股は通常の人間の2倍に腫れ上がり、足には十数箇所に釘を打たれたような酷い傷が残っていた。その他、睾丸裂傷。歯の破折。骨折。関節外し。

閑話休題 …

私自身、民主主義や社会主義、さらにその先の、真の共産主義に強く影響を受けている。だからなのか、この映画を観ていて、小っ恥ずかしくもあった。観終わって、「ま、誰かに薦めたりしなくてもいっか」とさえ想った。あまりに自分自身のテイストと近いから「共産主義者の視点から世界を切り取ったから、好きなだけなんじゃないの?」とも想っていた。マルクスやゴダールやギー・ドゥボールやスクリッティ・ポリッティと同義。

スペクタクルと相対する為には、相当の映画的快楽が必要なのだが、まさにギー・ドゥボールが指摘する「“市場“文明”社会”」以前の工場による搾取が主要テーマであるので、バッチリじゃないかと想い至る。「私は映画に支配されてるんじゃないか?でも、映画は人生じゃない、人生は映画じゃない!」と最近の自問自答に添う内容だった。

スペクタクルって恐い。SNSが加速させるスペクタクル社会とは、相変わらず『〜〜つもり社会』である。「映画を観たつもり」「本を読んだつもり」「社会の問題を考えたつもり」「行動したつもり」。誰もが議論の余地あり(まくり)の状態で、まずは1つの回答を持っている。議論と回答を交わすことなく、解答の強度は高まらないままでも。どのテーマでも「これを言っとけば(社会から)ズレてない」という「答え」を与えられながら、社会を生きるのだ。 見世物の社会とは盲目の社会のことだ。

閑話休題 …

この映画の女工らのように「やってやろうね!」と非常に前向きに闘争することができれば、今の私たちも、あらゆる問題を解決することができるだろう。映画を観て「報われる」のではなく、ただこちらを鼓舞してくるのだ! 文字通り、短命だったことは、今もザ・ストーン・ローゼズに焚き付けられる(最後まで引用🤓参照🤓)のと同じ、伊藤千代子さんはいつまでも消えない純粋な火と炎なのだ。
AKALIVE

AKALIVE