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重力の光 : 祈りの記録篇のrのネタバレレビュー・内容・結末

重力の光 : 祈りの記録篇(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

一人一人から粒になった愛が溢れていて、泣きそうになる瞬間が何度かあった。幻のような映像からは、天国と地上が交錯しているかのような感覚を得た一方で、ドキュメンタリーは完全な現実ではないということを実感させられた。映像に映る教会の人たちの過去や暮らしはあくまで断片的で、そのバランスと映画として形にするための誠実さがとてもよかった。光に向かって進み続けることが生きるということだと思っていたけれど、この映画は重力に引かれるように、日々罪を犯したり不幸を被ったりして暗闇に落ちていく中で、光を見つけて一瞬重力から解放されることを繰り返し続けることが生きることであると伝えているように思えて、それは光のようで、すこし重力から解放された。わたしの毎日は、良い方向へ進んでいくことよりも、色んなものにぶつかって落ちていくことのほうが圧倒的に多いから、苦しみや悲しみや罪を無理矢理乗り越えて先を急ぐのではなく、それを抱えたまま今いる地点で向き合うという形でなら少しだけ上手く生きられる気がする。だけど、解決しない問題を考え続けたり、罪の記憶を持ち続けるということは本当に苦しいし難しい。(手放すべきものもある)それができる強さがある人でいたいと思う。わたしは日本に住む人の多くが理解できる程度の慣習的信仰(無宗教者の信仰)しか触れてこなかったため、これは見当違いなのかもしれないけれど教会という場は重力をすこし手放すことをゆるされたり、わたしもあなたも重力を感じながら生きているということを確かめ合うことのできる場所であると思った。
愛や優しさを本当にあげるということ、何かを信じるということはその人の強さだと改めて思う。相手に対してとる行動の責任を自分で負う覚悟があるということ。責任を負えない誠意や信仰は与えることも受けることも暴力だし、カルトになる。優しいね、って言葉、簡単に使わないようにしていたけれど、その意思が固くなった。わたしたちはともに生きている、よりも前にそれぞれに生きているということを忘れないようにしたい。それは助け合わないということではなくて、ひとの思想や暮らしを侵食しないということ。傷ついている見知らぬひとに、絆創膏をあげる人が沢山いる世界であってほしいし、その傷が治るまで絆創膏をあげ続ける制度がある国であってほしい。傷がある人はそれを負い目に感じず、治るまで安心して休めなければならないと思う。情けないけれど私はまずひとの傷をちゃんと見つけて、知らない人でも迷わず絆創膏を差し出せる人になりたい。
追悼集会の映像が流れた時、これからこの国で行われる予定になっている国葬のことを思い出した。政府によって命に価値をつけられるとはどういうことなのか、(ある人にとって)生産性の高い命がより価値のある命だと捉えられる怖さについて、もっと真剣に考えたい。この教会と国は逆のところにあるように思える。どんな人でもまず受け止めることと、人をみて救うか救わないか決めること。安い賃金で替えのきくような仕事をしている、女であるのに誰かのためにケア労働をしたくないし、今のところ子供も産みたくないような私の命は価値が無いと言われてしまうのだろうか。社会で起こる問題は、私の問題でもあるという当たり前のことを思い直した。
映画とは直接関係ないけれど、最近読んでいる津島祐子のジャッカ・ドフニも信仰に触れる話で、何かを信じなければ命がぐらつくような世界に生き、ひとつ見つけた光に縋りただ生きたいひとの命が脅かされる状況は具体的な内容は変わっても、昔から何度も繰り返されている。権利として信教の自由が保障されるためには、何かを信じなくても安心して生きられる世の中で、家族や周りのひとの影響がない状態で自分で信じる光を見つけ、それについて考えたり安全に話し合える場所があり、そこに向かうことができ、祈るために時間をかけられる余裕をも前提として保障されなければ成しえないと思う。
辛い時だからこそたどり着く救いがあることも、絶対的に信じられるものが、実在するものでもしないものでも見つけられることはとてもとても大事で、足場になると分かっているけれど、辛い時に見つける救いの危うさも忘れてはいけないこと。
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