アニマル泉

苦い涙のアニマル泉のレビュー・感想・評価

苦い涙(2022年製作の映画)
4.3
フォスビンダーの「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」をフランソワ・オゾンがリメイクした。もともとファスビンダーは自分の実話を女性同士に置き換えたのだが、オゾンはそれを元の男性同士に戻している。
ファスビンダーのオリジナルとの変更点は
⚫️女性から男性への変更。ペトラ→ピーター(ドニ・メノーシュ)映画監督、カーリン→アミール(ハリル・ガルビア)、マルレーネ→カール(ステファン・クレポン)
⚫️5幕から6幕へ増えた。オリジナルの3幕のピーターとアミールの別れが4幕に独立して玄関で描かれる。本作ではピーターはアミールに唾を吐かず、その代わりに大喧嘩になる。
⚫️煙草をやたら吸うのがドラッグになる。
⚫️6幕で母のローズマリー(ハンナ・シグラ)がピーターに子守唄を歌う。
⚫️6幕でアミールが電話をかける場面がオンで描かれる。さらに電話をさせたのはシドニー(イザベル・アジャーニ)だと分かる。
⚫️カールがピーターの顔に唾を吐いて去る。
⚫️ラストにピーターはアミールのフィルムを見て苦い涙を流す。

オゾンは「ファスビンダーのちっぽけな人形から生身の人間にしたかった。映画を物語の中心に添えたかった」と言う。しかし皮肉にも逆にオゾンは映画から離れてしまった。普通の作品になってしまったのだ。
ファスビンダーがこだわったのは登場人物を安易に向かいあわせない人物配置だ。オゾンはごく普通にソファーや机を置いて人物同士に会話をさせる。ファスビンダーがベッドの寝室だけで、手前の人物と奥の人物、並ぶ、背中合わせ、寝転ぶ、といった向かい合わせだけにはしなかったのとは真逆である。オゾンにしてみればファスビンダー版は「ちっぽけな人形」に見えて、より活き活きとさせたかったのだろう。役者にしてみれば向かい合う芝居の方が気持ちのやり取りが出来てはるかにやり易い。しかしファスビンダーが敢えて役者に制限を課したのは本作のテーマが孤独やコミュニケーションだからだ。ファスビンダーは撮影の長回し、場面は寝室のみ、劇伴奏なしのジリジリする息苦しい展開で人物の実存に迫っていく。対して本作はファスビンダー版よりは洗練されて見やすい。カット割りのテンポがいいし、家の中の場面がリズムよく代わり、劇伴奏で抒情感を醸し出す。さらにオゾンはピーターを映画監督にした。「映画を物語の中心に添えたかった」からだ。しかしこれまた疑問だ。ピーターがアミールに向き合ってカメラを回す時、もはや本作の孤独やコミュニケーションのテーマが解決してしまうのではないか?ピーターが興奮してカメラを手持ちに担いでアミールのアップに迫る行為はもはや性交と変わらない。ラストでこのアミールのフィルムが使われるのは予想通りだが、そこでピーターが涙を流すのをあからさまに見せるのもセンチメンタル過ぎる。ファスビンダーは「苦い涙」を見せない。マルレーネが去りペトラが取り残されるロングショットで見せ切ったのとは対称的だ。アミールの電話とそれを仕掛けたのがシドニーだという設定をあえて付け加えたのも説明臭い。
ファスビンダーは映画の新しい地平に挑戦するシネアストだ。オゾンが映画の従来の地平に安住したまま、ファスビンダーの挑戦を無視した本作は退廃である。

本作はドニ・メノーシュが素晴らしい。巨体で動き回り、欲望があからさまですぐに体を求め、涙目で切なさを訴えるのは可笑しい。イザベル・アジャーニがドイツ語で歌う曲に合わせて一人で踊る場面は本作の白眉だ。オゾンはユーモアのセンスがいい。ピーターとアミールのベッドシーンを目の当たりにしたカールが思わずシャンパンをポンと開けると溢れ出すのには笑った。
オゾンの映像センスも素晴らしい。ファスビンダー版では壁一面の宗教画だったが本作ではシドニーとアミールの大きな写真となる。アミールの腹には矢が刺さり巡教者のようだ。アミールが去って絶望したピーターがアミールの巨大な写真の目に火をつけるショットは素晴らしい。ブニュエルのようなインパクトがある。
赤が印象的に配される。
カラーシネスコ。
アニマル泉

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