YasujiOshiba

遺灰は語るのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

遺灰は語る(2022年製作の映画)
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京橋の試写。23-36。冒頭にヴィットリオの名前がない。その名を献辞に見る悲しみと、それでもパオロの新作を前にできる喜び。

冒頭とラストで2度落涙。送られる者の物語と送る者の物語。不在のピランデッロの中に響く不在のヴェルディ。本当は撮られていたはずの「レオノーラ、さらば」の追悼。タイトルだけが、謎めいた美しさで目配せしながら、まだ語られぬ物語にぼくらを誘う。

最後の物語は「Il chiodo」(釘)。イタリア語の全文はここで読めるし、朗読も聴くことができる。これは便利。
https://www.pirandelloweb.com/il-chiodo/

ひとつだけ書いておく。後半は舞台がニューヨークなので英語とイタリア語のセリフになるのだけど、主人公の少年バスティアネッドのセリフに「定めによって」というものがある。ここは英語で「on purpose」。原作のイタリア語にあたると、どうやら「apposta」のようだ。

タイトルにもある「釘」(il chiodo)が、そこに「Caduto apposta!」というのだが、この「apposta」の部分が「on purpose」とされており、物語のキーフレーズとなる。なにしろ主人公の少年が拾う釘は「apposta」に落ちていたもの。その釘を手に収めた少年が二人の少女に出会うのも「apposta」であり、事件そのものが「apposta」に展開してゆく。

いったいこの「apposta」とはどういう意味か。原作では特に問われることがないのだが、パオロ・タヴィアーニはそれを「on purpose」と映画に訳して、それはどういう意味なのかと、こだわりをみせる。

ピランデッロが使ったイタリア語は「apposta」だが、これは「a posta」が約まった形。語源は動詞「 porre 」で、その過去分詞「 posto」が名詞化したもの。男性形の「posto」は単なる「場所」や「地位」などの意味だが、女性型の「posta」のほうは、元来は馬を休ませたり取りかえるためにあらかじめ設置された駅(stazione di posta)であり、現在では書簡を預けたり取りに来てもらうための場所やサービスの意味の「郵便(posta)」のこと。

あるいは、置かれたものという意味で賭け事での「賭け金」(posta)のことでもあり、「a propria posta 」の形で「誰かの目的で」という意味になったり、a psota / apposta 」で「なんらかの目的をもって/わざと」となってゆく。

バスティアネッド(Bastianeddu はシチリア語: イタリア語では Bastianello )という名前は、映画のためにつけられたもので、原作ではただの「少年 il ragazzo 」でしかない。その少年が荷車から落ちた「釘」をみて「Caduto apposta! 」と言う。難しい表現ではない。ごく日常的な言い回しとして「apposta!」と言ったのだ。

その「apposta」という副詞で、少年の注意を向けようとするのは、釘がただ単に「落ちていた」(caduto)のではないということ。それは、あたかも郵便が届けられて配達されるように、あるいは馬車が馬を休めたり取り替えるように、ちょうどその場所に/これみよがしに落ちていたのだ。それはつまり、後で使うことになるのだけれど、後から考えるとまるで「拾ってくれとばかりに」、その意味で「ちょうど落ちていた」(Caduto apposta)ということなのだろう。

それはどこか「チェーホフの銃」に似ている。「銃」はただそこにあるだけなのだけれど、小説に登場するということは、「撃ってくれとばかりにちょうど」描かれるというのだ。したがって小説に銃が登場するとき、「その銃は撃たれなければならない」。

物語というのはそういうものなのだろう。釘が登場すれば、その釘もまた打ち込まれなければならない。だから、物語に登場する「釘」は決して偶然に描かれることはなく、描かれたのは「わざと」(apposta)であり、「使ってくれとばかりにちょうど」(apposta)そこに描かれるしかないのだ。

では小説で銃が撃たれて血が流されるとはどういうことなのか。あるいは、この話のように、釘がとんでもない場所に打ち込まれ、思いがけない血が流されるのはどういうことなのか。そんな物語に触れる時のぼくらは誰もが、主人公の少年とともに、その血が流されなかったらどんなによかったかと悔いることになる。

そんな物語の後悔にふれながら、ぼくらが物語の外の人生に夢見るべきは、撃たれることのない銃であり、打ちこまれることのない釘なのだ。それをアガンベンの言葉を借りれば、現勢力となることのない潜勢力(非の潜勢力)。すなわち、できるけれど、やらないでおくこと。やらないでおくことで、物語として語られないものにとどまること。

たぶん物語とは、そのためにある。ぼくらは、生まれた時から、どんな冒険にでも挑戦する可能性に開かれている。しかしすべての冒険をやる必要はない。べつに冒険しなくてもよい。想像するだけでもよい。できるとしても、やらずにおくことのほうが大事なときがある。

たとえば嘘をつくこと。言葉を話せるようになるとき、僕らは同時に、嘘をつく能力を身につけている。ぼくらは、言葉を話せる限り、嘘をつく能力をもつ。ぼくらは言葉を話しながら、ついつい嘘をついてしまうのだが、それでもやがて嘘をつかないすべを学ばなければならない。

物語が教えてくれるのは、きっとそういうことなのだ。たとえあの「釘」が「これみよがしに、わざとらしく、ちょうど」(apposta )そこに落ちていたとしても、あんな不条理な使い方をする必要はない。そんなことはわかっている。しかし、ぼくらには実は不条理を行う潜勢力がある。その力を使って、不条理を実現することができる。

見よ、世に溢れる不条理の数々を。釘でも銃弾でも、戦車でも戦闘機でも、原子核を崩壊させてまでも、どれほどの不条理を繰り返してきたか。繰り返しているか。繰り返そうとしているか。

パオロは兄のヴィットリオとともに、そんな不条理を目の当たりにしてきた。内戦を生き抜き、戦後のタブーと戦い、ファシストの亡霊たちを厄払いし、革命を夢見て傷ついた敗者に寄り添ってきた。彼らの映画は、まさに不条理を描きだしながら、不条理を祓おうとしてきたのではなかったのか。

なるほどそれは、祈りに似ている。ベティの墓を訪ねる少年は、使わなかったときの世界を夢見ながら、十字架の前で祈り続ける。その祈りに、ぼくらは可能性を可能性のままにとどめておく。そういうわけなのだろう。年月がながれ、昨日の少年の黒髪は、今日にはもう白髪になっている。それでも祈り続けること。ただそれだけが、力を非の潜勢力のままに保ち、不条理を祓う物語を語り続けることなのかもしれない。
YasujiOshiba

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