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暴力をめぐる対話のchiakihayashiのレビュー・感想・評価

暴力をめぐる対話(2020年製作の映画)
4.4
 リベラシオン紙の記者を長く務めたという監督は、フランスのインターネット・メディアのパイオニアであり、警官による暴力行為を市民がTwitterに投稿・報告するサイトをウェブ上で管理している。本作はその投稿映像(その95%の出所と日付を明らかにし、クレジットを入れて正当な使用料を払っているという)を大写しにしたスクリーンの前で、社会学者や歴史学者、作家といった知識人から、実際にデモで片眼を失ったトラック運転手や手を失った配管工、激しく殴られた女性ソーシャルワーカーなどが対話をしながら発言する。通底する根本的な問いは〈警察による暴力はいかなる場合に正当化され得るのか?〉。

 当然、警察への批判的な言説が多いなか、「警官が防衛(のための暴力を発動)する前に何があったのかを映していない」と怒った口調で述べるのは警察官組合の警官。彼は異端の映画監督パオロ・パゾリーニの言葉を引用する。「機動隊こそ労働者階級の人間だ」と。
 ちなみに、検事正や国家警察の幹部は発言を拒否するか許可されず、「パリ警視庁は我々の依頼をすべて却下した」。
 つけ加えればフランスでは猟銃が容易に手に入るにもかかわらず、デモ隊は一度も発砲したことはない。

 冒頭、マックス・ヴェーバーの「国家はその利益のために、正当な物理的暴力行使の独占を要求する」という一文が引用される。監督は「重要なのは『要求する』という言葉です。要求には『議論がある』という特性があります。これがこの映画そのものなのです」と語る。

 また、映画では公法の学者(女性です)がフランス人権宣言の第12条を読み上げる。「人間と市民の権利の保障は、公的な力を必要とする。この力はすべての人の利益のために設けられるのであって、それを委託された者の特定の利益のために設けられるのではない」。

 以下、私なりの解説を試みると−−−−。
 私ご贔屓の岡田准一クンが黒田官兵衛に扮した何年か前のNHKの大河ドラマで、〝正義のヒーロー〟たる官兵衛はひとえに戦が続く世を終わらせるために、まずは信長の、ついで秀吉の天下統一に尽力する。群雄が割拠するなかから圧倒的な武力(物理的暴力)で抜きん出た勢力が天下を治める以外に、平和は訪れないのだ。だから天下を統一した秀吉は刀狩りを行って、武力の独占をはかった。
 
 同様のことを考えた近代哲学がホッブズの『リヴァイアサン』。それを〈社会契約〉というフィクション、というかリクツで、市民が統治権力に自らの〈力〉を委託すると考えたのがルソー。
 だから国家は物理的な暴力、つまりは軍隊と警察を独占する。そのように圧倒的な〈力〉を持つ統治権力を縛るのが憲法。で、立憲主義を踏みにじりまくったのがアベ政治と自民党。
 
 ここでもう一度、先のマックス・ヴェーバーとフランス人権宣言を読んでくださいマセ。ちょっとは問題の所在がイメージできるかしらん?

 ついでに。ウクライナ戦争で国際人道法違反だとか戦争犯罪でロシアが非難されているが、国家の上位にあって各国の国際法違反や戦争犯罪を裁いて制裁を加えるような〈力〉を独占している機関は存在していない。もっともボスニア内戦におけるスレブレニツァの虐殺(ヤスミラ・ジュバニッチ監督『アイダよ、何処へ?』参照)の首謀者は国際刑事裁判所で終身刑になっているので、国際法はまったく無力だとは言えないのだろうけれども。

 香港の民主化運動のドキュメンタリー『時代革命』(キウィ・チョウ監督、2022年)では、街頭での警察との衝突で、催涙弾やゴム弾のみならず、突然に銃撃される青年がいたりと、警察権力の暴力は目を覆うばかりだった。
 
 『暴力をめぐる対話』に戻れば、「人権の〝母国〟であるフランスでこのような暴力が許されるのなら、他の国々が模倣することになるのを恐れる」と国連特別報告者は述べる。
 監督がいう「私たち一人一人が関心を持ち、公権力に疑問を持ち、説明を求めなければならないのです」に処方箋は尽きるか。
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