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花札渡世のニューランドのレビュー・感想・評価

花札渡世(1967年製作の映画)
4.1
☑️『花札渡世』(4.1)及び『実録·私設銀座警察』(3.5)▶️▶️

ここアーカイブに納める為とくに綺麗に焼いたというわけでもないだろうが(プロジェクターやスクリーンらは確実に上部だろう)、曾て感銘を受けたがよりいい状態で再見出来るということで、ここに足を運ぶ事が最近は増えている。予算的に恵まれていない、火災発生前には、作家特集をやるのに出来あいの16ミリ版をかき集めてくる割合が低くなかった。只、収集保管の質·量の海外クラス到達·自慢には、新館長は興味あるようだが、自分の記憶力を吹聴するだけで、上映他の企画チャレンジ·作品自体への愛情は、すっかり衰えて権威になびくだけの正体を露呈するようになってきている。鳥羽さんや丸尾さんらの時代がましだった面も感ず。
『花札~』。衆目の一致する所、この演出(+作)家の最高作をCヴェーラでは時間が取れない事もあったが、ニュープリントでやっと観る(コロナでFC閉鎖の畏れもあり、少しハラハラ。しかし、仕事とカブッて今回の一番の期待作『霧の夜の男』は遂に観れなかったが、こういう日替り上映では仕方がない事だ)。以前観たプリントは、狙いか焼付け不全か、グレーの、被膜?が剥き出し感をコントロール·セーブしたものだったが、今回は対照的に白黒のコントラストがかなり強いものだ。本来の焼付時指示はどちらなのだろう。
やはり、溝口の真っ当過ぎる後継者の感。巨匠以降も少しは見られるが、こういうジャンル崩し、生の社会·人の弱さ·だらしなさ迄引っ張り出す気概·野心は若き~壮年溝口以来のものか。任侠の本来の姿を守る、生まじめヒーローなどいない。ここでも主人公は、「しっかりし」ない人でしかなく、ある社会を切り裂く人間などでもなく、たいして本気で感謝もされないような事を、個人的に拘り貫いただけの男だ(「死に花を咲かすだけ。血の縁に見捨てられた者らには、任侠の道、白を黒と言わされても、を大事に従い守るだけ、と思ったが、そのゆすり·たかりより、まだイカサマ〈博打〉がましで、出し抜かれ〈葬られ〉るだけの実態。堅気に戻ろうにも、約した女は先に別のと先に堅気に。この上は、彼女を引戻し·我が物にしようとする、彼女の実の親を殺っても係わらんともしてる、要素·者を全て摘むくらいで、気づかれもしない徒花を」)。
ヤクザの世界に限らず、社会に対し、真っ当過ぎる人間の中身のあやふや·弱さ、世間の表向き評価の裏の軽視·利用の流れは、日本という風土では、誰もが放置·黙認の揺るがなさ(建前と本音)、ちょっかいを出しても·そこまでで忠告は口ごもる。それを見越し、受け入れてる、本当に気のいい、人生と世を棲み噛み分けて来た、老人を除き(唯一、世代を越えた2人の人間の他意のない?大笑交感場面)。世の中の正体を、卑屈にもニヒル·暴露·アナーキーもなく、詠嘆や感傷もなく、まんま見つめあげる事。それが溝口であり成澤だ。ただ、ややリリカル(そぐわなそうで、スッと響いてくる音楽性フレーズのパターン的)でシャープで、メディアに忠実(「映画」に純粋·純情過ぎ?)で、溝口ほどの清濁併せ呑む度量まではいかない。より愛おしいが。
確かに溝口は阿吽の呼吸やその見抜き、アクション·闘いの先のはみ出し·張り出すものの現出にアップは使わなかったろう。しかし、成澤が表現を超えた次元に寄りサイズ·アップ(その恐ろしすぎる位置·角度の繋ぎ·連なり)を持ってくる精神は溝口の度を越した描破力の自分なりの対抗選択の様な効果がある。それは『残菊~』の終盤の余りに対照的な激しさ·突き破りをもつ2つの場面の並行カッティングすら思わせる。映画は超越されているのだ。狡いか·先んじて手を伸ばすか·美名の愚かさに留まったばかりの者たちを捉える、一見パターンに見えて醒めている、全景·手先の集まり·複数人間の力関係·家屋や(ナレーションや花札柄招く四季)自然美術の、俯瞰·ロー·斜め確度·物ごし縦図·どんでんらの、一般任侠映画に見えて、より解剖学的·感性的·かつ冷徹カッティングや前後やフォロー+α緩急ゆとりあるカメラワークから、暴力の効果·鮮やかさを突き抜けた形·モノ·実体の取り上げ·取り出し·その羅列に至る。
正統的で本意を捨て·その社会の秩序や美徳に誰よりも忠実と思われてた客分ヤクザが、実態は自立·正直になり得ない忸怩たる存在でしかないを、その世界の意図的はみ出し老イカサマ博奕打ちの自然体が教えてく流れで、身を寄せてる親分(秘か愛人たる養女手放さずから·イカサマ師娘に方向転換、その骰子から色々動き出す)·その(可愛くも残酷まっしぐら)養女や妾·跡目自認の弟分、イカサマ師の若い妻と見えて実は実娘·彼らを性的嗅覚嗜好からも追い続ける刑事、らが先の2人の無条件の善意の存在を、我欲から揺るがせ·貶めてゆく絡みのドラマ。誰にも結局は一目や畏敬·感謝もたいして残さない、常識からは判断出来ぬ、無駄·無為の中に主人公らは、自分の内だけの栄光を微かに見いだしてはゆく。
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狂犬ばかりを集中してやってた頃の渡瀬の最高作として有名で映画ファンの多くは目にしたことはあるだろう『~私設~』を、綺麗なニュープリントで観ると(オプチカル合成部の、経年による、色合い·粒子·グラデーションの劣化は致し方ないが)、佐藤演出=中沢カメラ=トランペット響きの、えげつないほどの細部描き込みに、丁寧さ·手の抜かなさは驚嘆ものと感心·驚き、改めて。が、やや描写に閉じ籠ってる感もして、映画から外界へ拡がり繋がるビジョン·救い(あるいはその希求)に欠ける気がして、ヒッチコックが演技に拘るバーグマンに言ったように「たかが映画じゃないか(、もっとルースに)」と言いたくもなる面も(気張り過ぎ)。戦後の焼跡·闇市·駐留軍や三国人威張る東京で、飲むや食わずで誇り失った街の生存者や·先に舞い戻った人々にも、白眼視される復員兵らが、街をリードしてく組織を造らんとす。治めてる現組織の壊滅、秩序回復の日に向け恥ずかしくない表向き会社看板、汚職の弱みを調べ突いての財源造りから固めてゆくが、はみ出したメンバーとの内紛、無目的快楽短絡志向の中堅らの本質、で不安定となり、身体と心を病んだ狂気の男の爆発暴発癖で、決定的複数場で組織は瓦解し、警察本格介入を招く。
傾けるだけでなく振り子のようにカット内で向き対称変移の激しさに合間のないカメラ、格闘中にも正確で弾力増す短CUの入れ、瞬間の目配せを脇から中身迄見抜く細心カッティング、ズームに頼らず丹念·執拗に近づき·動き回る移動、セット·美術のスケール正確さと·屋根のたらいの動き1つにも手を抜かない細心さ、俳優の目つき·アクション·荒みの様々の狂いや弛みの競い方(渡瀬や葉山始め)、カッティングのサイズ·角度の切替え·組立の確かさと自然さ、食い方·抱き方·とりわけ行為や血糊らリアクション·更に優位後や死体のなぶり·朽ち方のリアル異常、しかし部位や傷だけが独立はしない人間やその感覚の一部として捉えてる、スロー·スチル化·多重OL·字幕·半手描き加え力らの活用しまくり。力とある意味の美しさもあるが、突き抜けて行くものは欠けてる。
佐藤純弥がいいのは初期だけに止まらず、少なくともこの辺までは深作以上の細部·細心の描写力があったのだ。
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