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花札渡世のotomisanのレビュー・感想・評価

花札渡世(1967年製作の映画)
4.7
 この良さをどう伝えよう。もちろん斬った張ったの任侠劇、梅宮が無理無体を働く親分遠藤、安部子分、西村刑事、おなじみの碌でなしに道連れをたんまり付けて始末する。立ち回りも殺しも見事だ。仇ながら親分遠藤の甚振りの凄みには血の代わりに毒でも流れてるかようだし、安部襲撃では少尉、叩っ斬られた右腕をきっちり拾ってこと切れる天晴れに一笑。最後の一騎討、デカ西村に至っては交差一撃の匕首を食らいながらも手練のワッパ掛け、ただの集り屋じゃぁなかった。だけどそれらも所詮添え物。この話には、ヤクザなんぞになっちゃぁいけなかった男の呻吟が籠っているのだ。
 梅宮が独り言のように語りだすイカサマ師伴淳と連れ合い梅子との馴初めから伴淳の死、仇遠藤殺し、長い懲役の末の梅子との別れ、梅子に絡む安部・西村殺しまでの経緯が苦笑いのような感慨とともに綴られる。
 イカサマのお蔭、豊かな仕送りで不自由なく暮らせた梅子だが、家に寄り付かぬ父も、夫の不在にかこつけ情事に耽る母も嫌う。母の出奔で父と連れ立つ梅子がまさかのイカサマの片棒担ぎに。ただならぬ生い立ちがただならぬ身の立て方を許すもんで、かつては嫌っても連れ立ゃあ馬の合う父を夫と称して嘘の世渡り。いや実は、博奕場を食い物にする父にすれば、これほど確かな娘の守り方はないかもしれない。他人が娘に目を付けるのと、人の女房に手を出すのと世間はどちらを邪まと取ろう。
 イカサマ尽くめの伴淳梅子の傍らに棹差した梅宮がこんな親子の真実を聞かされる寄宿先の一室、俺に何かの際には梅子を頼むと伴淳が言うなり横になって寝入る、睦月十三日の宵の口、小雪も上がった窓を開け外を見やる二人の様子に、願わくばこの時がこのままいつまでも続けと思う。決して二人が何かを打ち明け合ったり、互いの何かを了解し合ったわけでもないのに。世界がこの一間、三人を限りに絶えてしまえば明日の梅子を賭けた札の勝負を迎えずに済むものを。
 そういえば物語の始めから、賭場にあって人より先に映すがま口の、口金に映る札の絵柄にイカサマの手口が垣間見えてた。どんな野郎かと探る梅宮の眼の先には伴淳の一癖ありな顔がある。左手甲の刀傷にイカサマ師の年季が知れる。強請りたかりの渡世より、技を尽くしたイカサマがましだという親父さん、壺振り稼業最期の跡か。とはいえ一六勝負の運を天に任す馬鹿らしさよりダフ屋のイカサマで寸秒早く絵柄を読んで運を掴みに走るのが花札博徒の冥利と笑う。睦月十四日、親分遠藤の横恋慕が梅子を賭けた十二番。またも親父さんのイカサマに敗れた梅宮の見切れなかった手口の打ち明けに、悔しいやら呆れるやら。がま口の手口が利かなけりゃ間食に取った鮨のしたじ皿の水鏡、またも梅子と伴淳にしてやられて、笑う親父に釣られて笑う。手合わせにも勝負にもまた負けた。いっそ足を洗えたらと、堅気に心を切り替えられたらと思ういっときだったかもしれない。いづれにせよ、睦月十五日払暁、親父さんは刺殺。梅子をめぐり親分遠藤以下の殺しに事が走り出す。
 梅宮が語る独り言。それを物語る事が、梅宮がまだ生きてそれを語っているのだと感じさせる事が、叶わぬ悲恋とただ生業に過ぎなかった博徒渡世の侘しさとに独特の色を添えている。それは義理で縛って道理を曲げるやくざな手合いへの痛憤と裏腹に縛られ曲げられに泣く者らへの手向けのようにも感じられる。
 遠藤殺しの懲役を恩赦で五年目に出た娑婆で、梅子との別れ際の約束通り待つ茶店に現れた梅子は堅気で人の妻。刑事西村を躱す隠れ蓑でもあるその結婚も五年目の今は幸せだそうな。避けがたい経緯ながら待たせるほかに能の無い五年の恨みを飲み込んで、心配ないと請け合う先には、絡む柵の二人を斃す事ばかり。こんな男のあった事だけ覚えていて欲しいと言い残し、今の亭主への義理から手も触れ合わせず聞き流し別れる二人はやはりやくざ以外何者でもない。
 それでも、頼むといった親父さんに立てた義理は、叶わぬ二つの恋路を遮る二人と付け足しを伐り払っての路一つ。一本道を梅子の三歩後ろから足を忍ばせての日陰者。女は辛いし男も辛い。ヤクザなんぞになったばかりに梅子に知り合い又切れて、切れても離れられない。離れられないのにもう会えない。ああ馬鹿だ、馬鹿でも生きて梅子の後ろ姿を拝んでいたい。これが話の顛末か、と思った。
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