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ザ・ホエールのSQURのネタバレレビュー・内容・結末

ザ・ホエール(2022年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

ラストのワンシーンで身体がふわっと浮き上がり、救済されたような、もっと言えば天国に召されたかのような演出があり、今までの写実的な描写の流れから逸脱していて、作品の完成度を著しく損ねてしまっている部分がとても好きだ。
『HUNTER×HUNTER』の旅団の各メンバーを占うくだりで、パクノダに対する予言には「暗くてわずかに明るい日 貴方は狭い個室で2択を迫られる」といった文言が記されている。そして、パクノダはその"狭い個室"を自分の脳内のことだと解釈する。
本映画は、ほとんど薄暗く狭い室内しか映らない。そしてその中でたくさんの言葉が飛び交う。そして最後にはその部屋が解放され、外からの光が差し込む。光は言語を超越したものであり、キリスト教の文脈で言えば赦しや救済といった感覚と近しいものなのかもしれない。一方で、それは聖書の中に記されている赦しと同一ではない。なぜなら彼は、そういった救済を欺瞞だと拒絶していたのだから。しかし、冒頭で書いたように、スーパーナチュラルな演出と共に光が差し込む。以上のように解釈したとき、この映画の構造が、わずか数ヶ月前に公開となった『対峙』と近似していることを指摘しておきたい。言葉が過多なレビューになってはしまうが、つまり、狭い室内でごちゃごちゃと言葉が飛び交い、人間が学習してきた「正しくあれ」という倫理の文言で行き詰まりにっちもさっちもいかなくなったときに、瞬間、自分の外部に世界が広がっていること(他者性)に気づく。そして、言語を超越した感覚的な、ある意味スピリチュアルな体験によって、言語の牢獄から脱する。そういった構造があるということだ。

物語の中にテーマを見出す所作を、多くの人がごくごく自然に行う。私は以上のように2つの別々の映画を解釈し共通するテーマを見つけたことで、それを同時代性だといってまとめることができる。一方で、私が私の内的な問題に対して、映画を引き寄せて解釈した可能性も同様に考えられる。前者であれば、「私たち」は同じ課題にぶち当たっているということで、後者であれば問題にぶち当たっていると思っているのは私ひとりだ。

閑話休題。
言葉の過多な映画はつまらないことが多いが、それは言葉が多い映画は良い映画になり得ないということとイコールではない。映像的なメディアの中で言葉を多用することで描けるものも多いはずだ。

ここからは本映画の内容とややズレた、映画論的なものになってしまうかもしれないが、映画をみて考えたことを「正直に」書き残しておきたい。
ポストモダン、というのがどうも私が物心着く前に注目されたらしく、世界は脱構築されたとかされないとかいうが、それと関連があるのか分からないけれど私は今フィクションといった文化全体が、ひとつの大きな変容を迫られているように感じている。それは、倫理の問題だ。正確に言うと、倫理の問題ではないが、適切に言い表す単語が思いつかない。
少なくともこの数十年の物語は、現代という脱構築以後?な視点から見ると、かなりの怠惰であったとフレームづけることが出来る。例えば、誠実であること、例えば優しいこと、例えば正直であること、例えば死、いくつもの"安易な"物語という世界において通用するとされる「ラディカルで正しく強い主張」が根底にあった。そこからずれるものは「倫理的に正しくない」「道徳的でない」言葉でどう表現するかは勝手だが、とにかくデキの良くないものとされてきた。しかし、少なくとも私はこの数年で、それらの「感動的で素晴らしい物語」が一気に陳腐なものに思えてきた。明確にその理由を言葉にすることは出来ないが、そんな安易な結論で救われる登場人物も、そんな安易な結論で救われる観客、つまり私自身も虚しいものであるように思えてきた。私と同じように、今多くの創作者もまた、悩んでいるのではないかと密かに思う。
"正しい"ことをしてもいつか死ぬ。登場人物が物語的倫理に乗っ取った行動をとり、その「物語」の終わったあとで必ず死ぬ。どんなに良い映画を見て、どんなに感動しても、いつか死ぬ。死ぬから何をしても無意味だと言いたいのではなく、全ての人が唯一無二の人生を送り、そして必ず死ぬという中で「正しい」ことが持つ意味を以前のようには信じられなくなってしまということだ。

物語倫理の危機が、私の内的な変化の反映なのか、それとも遅れてきた脱構築の余波なのかは分からない。しかし最近多くのフィクションでそのことを感じる。
どうにも奥歯に物が挟まったような煮えきれない結論は『逆転のトライアングル』や『世界の終わりから』などとも類似しているとして、これまた同時代性の話ができそうだ。

親子が心を開き合うこと。
不良娘の良いところ見つけること。
彼の死は間違っていなかったとリフレーミングすること。
もっと自分に正直になるべきだと気づくこと。
さらに言うなら、自己満足の自己中な綺麗事を喝破して見せること。

それらはもちろん変わらず「良いこと」だ。しかし、もう、そこに留まり続けることはできない。
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