幽斎

ザ・ホエールの幽斎のレビュー・感想・評価

ザ・ホエール(2022年製作の映画)
5.0
※令和6年能登半島地震で被災された方、改めてお見舞い申し上げます。不安な日が続きますが、どうか安全な場所で皆さんの大切な命を守って下さい。

【幽斎的2023ベストムービー、ミニシアター部門第2位】
新年一発目は此方の作品です!。ハリウッド・スターBrendan Fraserが見事カムバックを果たし、アカデミー主演男優賞獲得。彼の人生と重なる、壮絶な最期の5日間をサスペンス溢れる筆致で描き出すのは奇才Darren Aronofsky監督。Tジョイ京都で鑑賞。

制作は過去に例が無い程、極めて混迷。原作Samuel D. Hunter著「The Whale」。2013年ルシール・ローテル賞の優秀劇賞を受賞した舞台劇。マッカーサー・フェローシップ受賞者で演劇の世界では知らぬ者は居ない。自身の体験を基に描いたと語る彼は、現在とてもスリムな体系だが(笑)。宗教系の学校に通い、同性愛者として複雑な経験をする。信仰との葛藤に苦しんで鬱状態に為り、過食で辛さを紛らわす心情を描いた。原作は、そんな彼の心象的なハレーションが産み出した傑作。

だが、映画化は困難を極める。先ず誰が監督するのか?。最初の候補は「ノクターナル・アニマルズ」ファッションデザイナーで有名なTom Ford監督。「007」タキシードで有名な彼だが、同性愛の描き方に対するクリエイティヴの相違で降板。LGBTQに理解のあるGeorge Clooneyも候補に成ったが実現しなかった。制作会社も二転三転、漸くDarren Aronofsky監督に決まる。だが、問題は此処から。

過食と引き籠りの肥満男を誰が演じるのか?。結局スタジオは皆大好き「A24」に落ち着いたが、此処から主演選びは「10年」を要した。幾らVFXが進歩したとは言え、体重272kの大男を俳優が太ってRobert De Niroの様に演じる事は、今のコンプライアンスでは無理。初めから大男を起用すれば良いかも知れないが、映画を撮る前に「入院させろ!」大合唱を喰らうのは必定。監督は「マザー!」制作後に本格的にキャスティングに着手。スタジオから太った体形は新開発のファットスーツで。メイクは最新のDFXで俳優に特殊メイクを施した上、AIを利用した動体99%のデジタル合成でイケるとGOサイン。アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞も当然のハイテクノロジーの塊。

多くの有名俳優に断られ、監督は偶然YouTubeで、2006年制作「Journey to the End of the Night」夜の果てへの旅、を見て「コレだ!彼だよ!」直ぐに電話。Brendan Fraser 55歳、本来は説明不要のハリウッド・スター。私より世代が上の方にはスター的な存在。代表作に恵まれた彼だが、「ハムナプトラ」「センター・オブ・ジ・アース」以降は体調の悪化、結婚生活の破綻、母親の死、様々な要因で表舞台から遠ざかる。普通は続報が有るモノだが、彼の場合は文字通りプツりと途切れた。その原因が、こんな事だったとは。

ゴールデングローブ賞を主催するHFPAハリウッド外国人映画記者協会の元会長Philip W. Berkからセクシャルハラスメントを受けたと雑誌「GQ」で告発。ソレが原因で心的ショックで鬱に為り、第一線から退くしか無かったと。今ならハリウッドが上を下への大騒ぎに成るが、当時のHFPAの声明は性加害を「ジョーク」で片付けた。しかも、外国人映画記者協会からブラックリスト、ハリウッドからボイコットされた。レビュー済「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」#MeTooのお陰で彼は再び声を上げ復権を果たした。ジャニーズ性加害で、同じ境遇の方がどれだけ居るのかと思うと、心の底からゾッとする。

第95回アカデミー授賞式はレビュー済「エブエブ」圧倒されたが、最大のハイライトは彼の授賞式の様子だろう。招かれた俳優の全ては彼の受けた仕打ちを知っている。私も数々のスタンディングオベーションを見たが、此れほど感動出来るシーンは記憶に無い。彼は決して忖度されて演技賞を獲った訳では無い。アカデミー会員が万感の思いを込めて彼に栄誉を与えた。彼が不遇の時も人の道を外さず苦労を重ねてる事は多くの俳優仲間が見ていた。努力は必ずしも報われないが、心の底から本当に良かった。

秀逸なのは原作者が映画の脚本も務め、舞台はそのまま室内劇に置き換えられた。監督は原作からテーマを「メンタルヘルス」精神疾患に絞り、主人公の内面に寄り添う事で、心の葛藤を浮き彫りにするサジェスチョンに切り替えた。一見するとギャグにしか見えないコンセプトを、シリアスに傾倒しないラインを保ち乍ら、完成させた手腕も高く評価したい。私は「ブラック・スワン」的なスリラーならヤダなと思ったが、テイストは「レスラー」に近い。「太った人に希望を」と言う訳では無く「Empowerment」自主独立を叫ぶ訳でも無い、どん底の闇に落ちた人間は本当に立ち上がるのか?。

神経心理学の世界には「Resilience」と言うワードが有り、最近ではミステリー小説でも見掛ける。ディスアドバンテージ、己に不利な状況でも自身のライフタスクを対応させる個人の能力、と言う意味だが回復力、抵抗力、復元力、耐久力、再起力等言い方は色々だが、レジリアンスを築く方法を本作は深く静かに問い掛ける。少なくともポテチとコーラを用意してスマホで寝転んでながら見する作品では無い(笑)。

【ネタバレ】物語の核心に触れる考察へ移ります。自己責任でご覧下さい【閲覧注意!】

監督らしい作劇故にプロットの解釈も多岐に渡る。コンセプトはシンプルな室内劇だが、多義的なテーマを全てココで述べるのは難しい。考察ルートは5通り有るが、私は「宗教」から本作を紐解こうと思う。ポイントはアランの死因が自殺と言う事。アランと妹のリズの家族は新興宗教ニューライフに入信。私はアメリカで就労経験が有るが、ホントに街に1つは有るんじゃないか位に新興宗教の数は多く誘いも多い。キリスト教に対する不信感で「新興宗教に入信」と聞いても、町内会の会合位の軽さ(笑)。

リズは宗教への信仰心を捨てたが、アランは親の期待に応えたいと真面目に取り組んだ。創価学会や統一教会のカルトと違い家族の縛りが無いのも特徴だが、アランは宗教を愛してた。キリスト教への信仰と相反と、アイデンティティのギャップに悩む。結果として愛する宗教から家族から見放されたと思い込み、絶望と言う悲劇を生んでしまう。アランはチャーリーと体の関係に。リズは人は誰かを救う事は出来ないと言うが、救えなかったチャーリーは人生と生活に絶望、アランとは逆に過食症に為ってしまった。

私はEXクリスチャン。生家は300年続く家系で宗派は臨済宗。アメリカに住む友人の影響でカトリックに興味を持ちましたが、本作は「同性愛」がテーマ。宣教師のトーマスは「アランは神に祈りを捧げないから死んだ」と言うが、キリスト教は基本的に同性愛を容認しない。同じキリスト教でもニューライフは福音派プロテスタントで個人への戒律が厳しく、ローマ法王のカトリックは時代の変化で同性愛に肯定的に傾いてるが、子供を創る事が神の啓示と言う世界観では、アランやチャーリーはマイノリティ、神からも見放される。つまり、宗教とはアイデンティティの否定から始まるのか?。

アイデンティティを否定されたと思い込んだチャーリーは、自分の過去が全て間違っていたと考える。妻と娘を捨てた事、男性を選んだ事、アランを救えなかった事、全てに置いて悔いた。だが、チャーリーの様に「普通の生き方」が出来ない人には、今の世界は文化が発展しても過酷と言える。エリーや生徒に「素直に言え」と言ったのは、アイデンティティを認めたく無いから。アランが自殺した原因のニューライフを責める事をしない点も腑に落ちる。宗教から存在を否定され、メアリーとの関係も上手く行かず、アランにも先立たれ、彼はエリーが全うに生きる事が唯一の生きた証。チャーリーはラストで自分の足で立つ、そしてエリーの元へ向かう。最後の景色はエリーやメアリーと来た砂浜。楽園のシーンを見た彼は死ぬ直前に救われたと私は思いたい。

「The Whale」の意味は名作「白鯨」本編に何度も登場。アメリカ人には人生のバイブルだが、小説の原題はMoby-Dick or The Whale。エリーが8歳の頃、白鯨を読んで可哀想と讃えた事こそ、人間本来のアイデンティティ。チャーリーが何度も言い聞かせるのも、アランの死で自分を否定し続けたから。死ぬ前に白鯨を読ませた理由は、エリーに自信を持てと言う願いと、自分に対する救いを求めた。白鯨はキリスト教に従わない人種を虐殺した風刺を込める等、本作に隣接するテーマも多い。世界10大小説に例えられる傑作なので貴方にも読む事を強くお薦めする、死ぬまでに。

鯨は立ち上がり海に還った、そしてBrendan Fraserも。全てに完璧な映画に言葉も出ない。
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