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NOPE/ノープのrichardのレビュー・感想・評価

NOPE/ノープ(2022年製作の映画)
4.0
わたしたちに見えているものは本物か。
あるいは幻想か。はたまた偶像か。
それはなぜ生まれたのか。
自分の中の傲慢さゆえか、恐怖心からか。
もともとそこにあったのか。ではなぜ見えなかったのか。
わたしたちはそれらと向き合えるか?
それともNOPE(無理)?

ジョーダン・ピール作品は初めて。事前情報は入れずに鑑賞。予告もあらすじも考察も見ずに観るほうがグッと引き込まれる気がする。音響の立体感がすごいので、これは映画館で観れたらよかったなと思った。

「結局のところどういうこと?」な作品のわりかし上位に入るタイプだと思うし、わたしも映画が好きじゃなければこれ以上考えようとならないが、なんとありがたいことにわたしは映画が好きなのでここからはわたしの感じたことを散文的ではあるが記しておきたい。
ネタバレしかないのでご注意を。


《わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする》
この映画は旧約聖書のナホム書第3章6節からの引用で始まる。
動物を、そして人を見世物にしてきた我々人類を咎め、改めさせる映画だと思う。

作品のテーマは、大きく2軸あると思っていて、
①動物(生きているものはすべて)は飼いならせないということ
②カメラ(記録)と人間の目(記憶)の違いについて
ざっくりとこの2軸が平行して描かれていると感じた。

①についてだが、「自分が何かの支配者になることは到底できないし、それが叶っていると思っているのだとすればそんなのは勘違いで、いつだって反逆は起こりうる」そして、「傲りはつねに自分の身を滅ぼす要因のひとつである」のだということ、おおよそそういうようなことを感じた。


作中では、《ゴースト:馬》、《クローバー:馬》、《ゴーディ:猿》、《ラッキー:馬》、《Gジャン:空飛ぶ人食い》の名前がクレジットのように画面に記される。最初は馬の名前の記録かと思ったが、ゴーディの名前があがったところで、これは人間に支配されている動物たちの名前だということ、そしてGジャンの名前が出てきて、あの怪物も飼いなら(そうとしている)される側の生き物でありながら恐怖心を与えうるものであるということがわかる。

あとから調べて知ったが、ゴーディが人間を攻撃するという事件は実際にアメリカで起きていたらしい。なんだか志村どうぶつ園のことを考えた。好きな番組だったし、後番組も好きだけど、現代の番組はこういう動物にストレスのないよう徹底的な配慮がなされているといいなと思ったが、つい最近だってワイドショーが動物園にロケに行った際のことで炎上していたのを思い出す。詳しくは書かないし誰が悪いとも言わないが、あれだって一歩間違えれば動物の性質によっては怪我人が出ていたかもしれないし動物は殺されていたかもしれない。

飼いならすという言い方をするからピンとこないかもしれないが、人間にだってそうなる可能性、というか実際過去にもそうした奴隷制度があり、奴隷たちは名前を持たないものとされ、番号とかで呼ばれ長い間支配下に置かれてきた。しかし支配される側にはいつだって心に怪物が宿っているし、いつだって反逆により戦争が起こっている。というか怪物なのは支配している側だろうどう考えても。
不意に、「モンスターを倒した。これで一安心だ」の事件を思い出す。
彼女にとって母親は支配者であり、怪物だったのだ。
動物(生きているものはすべて、人間だって)飼いならせない。


②についてだが、記録と記憶の違いについて執拗に描きたい意志を感じていた。
この作品は、ジュープの過去のできごとの映像から始まっているってことが、映画の前半でジュープ自身による回想からわかる。ジュープというのは主人公OJの牧場の近くでテーマパークを経営する元子役俳優。

もう少し①のことを交えながら話をする。ジュープが出演していたのが、お猿のゴーディと一緒に出演者がワイワイする番組だった。番組ではあることがきっかけでゴーディがパニックを起こし共演者を殺害・攻撃してしまう。当時子役としてスタジオにいたジュープはテーブルの下に隠れていたが、セット内をうろつくゴーディに見つかってしまうものの、テーブルクロス越しだったことと、ジュープは別のもの(※)に気をとられていたということもあり、ゴーディの目を直視しなかった。ジュープから敵意を感じないで済んだゴーディの目は正気を取り戻し、ジュープに対していつも番組でやっていたこぶしを突き合わせるという仕草をしようとし、ジュープもそれに応えようとするのだが、ゴーディは射殺されてしまう。

という一連のできごとが、カットバック的に劇中では登場する。
この別のもの、というのが共演者だったメアリーが履いていた靴が直立しているというもので、これを見ていたから目を合わせずに済んだとされている。だが靴が直立しているなんて重力的にもありえない話で、これはおそらくジュープの記憶による保管なのだと個人的には感じている。ただそのできごとは、トラウマという形ではなく、崇拝的にジュープを「自分は選ばれた人間であり、生き物と心通わせられる人間なのだ」と思い込ませ、大人になったジュープは空飛ぶ人食いを飼いならそうとした、、、
(動物は目を見つめられると敵意とみなしパニックあるいは攻撃的になるが、そのことを理解していなかったジュープは、やすやすと他の客と同じように空飛ぶ人食いを見つめてしまった。そしてOJはそれを理解し、攻略法を見つけ出す)

別の考察で見つけたが、
《ジュープというキャラクターの背景には、アメリカの映画やテレビ業界で「使い捨て」のようにされてきたアジア系子役の存在がある。 こうした人種問題を表しているのが、『NOPE』の劇中でエメラルドがジュープに放った「『キッド・シェリフ』のアジア系の子だ!」というセリフである》というのがあって、ここでもまた人(アジア人)を〝見世物〟にしてきた映画業界・観客を咎める要素を垣間見る。

ここでの映像はジュープの記憶として描かれる。記録ではないのだ。

今の時代、誰でも手の内にカメラがあって、いつでもなんでも撮れるし、撮れてしまう時代になった。いかにバズるかを自動的に考えてしまう世の中。おまけに加工や編集なんていくらでもできるし、フェイクだって。それをすることで迷惑を被る人間や生き物がいる。
わたしはいつだって、カメラを持つ者の役割のようなものを考えて生きている。OJやエムたちがバズを狙う中、ホルストだけは〝ドキュメンタリー〟への強い思いを持ち、牧場にやってきた。《ホンモノを撮りたい》そんな強いまなざし。だからこそ、デジタルではなくフィルムで挑む、というその差がすごくよかった。よかっただけに、《撮りたい》というその欲望なのか《撮らなければ》という使命という名の傲りによってホルストは飲まれてしまうっていう展開も、「マジ」で「そう」って感じがしてウケちゃう。そもそもフィルムの時代でだって、人間は画面の中でもいくらでも人を欺くような映像を作ってきたのだから。

しかしエムの、最後まで死なねえぞ!という生命力を発揮させたのは、写真でもなんでも、何かに残すという使命だった。兄ちゃんがひきつけてくれたからこそ私は生きている、もし飲まれるのだとしても、最後に私が成し遂げられることをしなければ。生き残るだけじゃダメなんだ。記憶と記録は違うのだから。
そしてそこの根底には、兄OJがずっと抱えてきた親父の仇を打つという野心を受け継いでいて、兄妹愛が強すぎてそこにも感情を揺さぶられずにはいられない。

そしてラストには西部劇さながら、OUT YONDER(はるか向こうに)と書かれた旗の向こうにOJの姿が浮かび上がる。これは妹エムの視点のため、こちらも記録ではなく記憶となる。果たしてそこにOJは存在したのか、エムの希望的観測なのか、われわれには分からない。しかしそのことで彼女が救われているのは間違いなかった。

結局のところ、いろいろ学びを得られる映画だったというのが素直な感想。

・自分の恐怖心とどうやって向き合うべきか
・信じることの勇気とそこに潜む危険性
・盲目になってはいけない
・誰かや何かを見世物にするとき、同時に自分も晒されている
・アーカイブの重要性、それの取捨選択
・自分の目の前で起こった信じられないできごとは、それを知らない他人に信じてもらえるだろうか?
・一番搾り出てきた!


最終的に空飛ぶ人食いはやっつけられた。ではそれは正解だったのか。
やったことはゴーディに対するそれと同じではなかったのか。この点については(てかこの点だけじゃないねんけど)いろんな意見があるだろう。

この映画の中で何度も何かを・誰かを見世物にするという行為が繰り広げられた。

おそらくだが、今度はエムたちが晒される。
記者のそばにいたエムが一番話を聞かれ、おそらく記録物もいったん回収されるなどし、フェイクを疑われ、この無法地帯で行方不明となった人々のことも重要参考人として聴取されるのだろう。ムショ行きかは分からんが、場合によってはオプラどころではない。
個人的には、そうしたポジティブではない未来のことを考えさせられた。そして同じようなことが、今だって、いろんなところで起こっている。

何かの事件や誰かの不幸を洗いざらい晒そうとし、エンタメ化する。

それは正義ですか。
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