くまちゃん

PIGGY ピギーのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

PIGGY ピギー(2022年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

ブタと罵られた少女は孤独の中で鬱屈とした毎日を送っていた。クラスメイトにはバカにされ、家族にも理解を得られない。自身の心の奥底で抑圧していたものが倫理に触れる時どのような選択をするのか。
今作に登場するキャラクター達は誰もが表層的な思いやりと確固たる自己保身が共存するリアルな人物描写がなされている。そのリアルさがあからさまなのが逆に誇張されていると言えるのかもしれない。

今作の優秀な所は同級生たちは同世代でまとめなかった所だろう。いじめっ子たちとサラを演じたラウラ・ガランとでは10歳程度年齢が離れている。容姿によりイジメの対象とされる設定上それは有効に機能している。

サラがプールに沈んだ時にサラッと画面に映る水死体はインパクトがあり、陰惨で冗長ないじめシーンの中で離れかけた観客の注意を再び向けさせる吸引力がある。

サラは自身の髪の毛を口に咥える場面が何度か出てくる。主にいじめっ子が近くにいる時や家族との食事中に顕れるその行動は不安を紛らわせるためと推測される。子供は不安を感じると爪を噛んだり指をしゃぶったりする時がある。ライナスの毛布も同様だ。ただサラにとって口に含める行為自体に安心感を抱くのだろう。後半、明らかな異常事態に対しては飴を舐めたり、菓子を食べて心を落ち着かせている様子があった。常に友人や親から自信を踏みにじられ続けてきた結果、著しく自己肯定感が低下し不安症な性格に陥ってしまったのかもしれない。そしてそれは食へと繋がり、安心と肥満の等価交換という悪循環に呑まれてしまったのだ。母は痩せたいなら野菜を食べろダイエットをしろと指摘するが恐らくサラに必要なのは食事制限ではなくカウンセリングではないだろうか。

サラやクラウディア、警官親子、クラウディアの無駄にイケメンなボーイフレンドなど、今作には本人とその親が登場する。どの親も支配的で独占的な愛情を持っている。それはこの田舎町での窮屈感へと通じ、逃げ出した牛は自立と自由を象徴している。その牛が車に轢かれたのは自由を手にする困難さを顕しているかのよう。コミュニティからの脱却を試みる者は淘汰されるのだ。

サラの中には不安や恐怖を抱きつつも好奇心や欲望を優先させる傾向が見られる。体型により虐げられているにも関わらずプールに出かけたり、失禁するほどの恐怖体験に遭遇しながらも殺人鬼がうろついているかもしれない夜の森をスマホ探しに訪れたりする。さらにはおそらくその犯人が持ってきたであろうサラの好物の菓子が部屋の中へ放り込まれた時は、慄きながらも菓子に齧り付いていた。不安を鎮めるためとはいえ節操がなさすぎる。

クラウディアはサラとは仲の良かった友人だったのだろう。サラの精肉店で買い物をし、イジメ行為にも消極的だ。サラとクラウディアは同じブレスレットをつけていたことからその関係性の深さが伺える。だが地元の上位グループに属するクラウディアは戸惑いながらも虐めに加担する。狭いコミュニティでは輪を乱す者は淘汰される。クラウディアは自身にイジメの矛先が向けられないように迎合するしか無い。これがもしクラウディアとサラが逆の立場だったらどうか。
サラはクラウディア達が誘拐される現場を目撃する。いい気味だと呟きながら涙するほど良心の呵責に苦悩するサラは、それでも話さない選択をする。これは虐めを見て見ぬふりするクラウディアと同じであり、サラがグループに属していたとしてもやはりクラウディアと同じような行動を取ったはずだ。

目的の分からない犯罪者ほど怖い者はない。今作の殺人犯は、プールの監視員を殺しクラスメイトを誘拐した。他にいくつかの死体が見つかる事から継続的に行なわれている蛮行であることがわかる。
だがサラに対しては初めから優しさのようなものを見せる。誘拐現場で遭遇したサラへいじめっ子達が持ち去ったサラの荷物を返した事から始まり、他の人間、サラの家族さえも容赦がないのにサラに対してだけは危害を加えない。サラの母親を殴ったのはサラが母と口論になった直後だったため、タイミングを考えるとこの名もなき犯罪者はサラの鬱屈とした感情を具現化した存在のようにも感じられる。また2人の関係性はプラトニックなもののように描写され、そこにサラの性の発露が垣間見れる。つまりサラはこの男の存在によって精神的成長を促されていると言える。

森の中で殺人犯と再会したサラ。そこへ誘拐された被害者の家族がスマホのGPSを頼りに帰らぬ娘たちを探しに来る。
壁1枚隔てた状況で捜索者とサラがギリギリ噛み合わない場面がサラが逃げおおせるまで続く。暗い森のど真ん中。相手はライトを照らしているが、サラもスマホのライトを点灯させたまま隠れている。光はお互いの場所を教えているに等しい。サラは光を隠す努力はしているが、そもそも光を消すべきだろう。ここで相手にサラの存在が気づかれないのは流石に不自然だ。ここまできてこちら側を探さないのはサラを見つけないようにしている配慮にしか感じない。本来であれば「裏窓」のようにスリリングなシーンになり得た所、この非合理的なサラの行為によってドリフのコント的な滑稽さが付き纏う。

被害者たちが監禁されている倉庫にはクラウディアとマーカが拘束されていた。必死に助けようとするサラにクラウディアは本音を暴露する。なぜ警察に言わないのか。お前のせいで私たちは死ぬんだと。クラウディアはサラを罵りながらも必死に救助を懇願する。助けてくれと。
この絶望に垂らされた一縷の蜘蛛の糸。それに縋るクラウディアとマーカ。自分を先に開放しろ。自分の描いた物語と同じ光景が広がっていたら芥川龍之介もきっと辟易したに違いない。人間のエゴは恐怖によって増長され、それは自身の死後100年が経過しようと何も変わらない。根源的で普遍的な陰険さ。その醜悪さこそが人間の本質なのだろう。

殺人鬼は逃げたサラを探す。逃げるサラはまさに泥に塗れた豚のように汚れていく。これはきっと意図的だ。追って来る相手は己の欲望。そして対峙する。興奮状態のサラはライフルで殺人鬼を射殺する。スリラー映画ではよくラストで敵を殺害する場面が描かれる。銃など扱ったことのないキャラクターがハンドガンやライフルを的確に照準を合わせ射殺する。爽快感はあれど都合が良すぎる最後。だが今作では精肉店の娘であるサラは父と定期的に狩猟に出ていることが明かされている。つまりラストで巧みにライフルを扱う場面は作中最も理にかなっている。さらに殺人鬼を殺害することは自身の抑圧されていた心の開放である。豚とは本来雑食性。血まみれで佇むサラの姿は冒頭の解体される豚のイメージと重なり、それはある種の成長の姿。ピギーとバカにされた少女は正真正銘ピッグと化したのだ。
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