JFQ

PIGGY ピギーのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

PIGGY ピギー(2022年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

インパクト大のサムネにつられ観に行く。
前段「何を観せられているのか?」という気分になるが、後段に向かうにつれ構図が分かってくる。逆に言うと、前段は少し我慢がいるかもしれない…。

で。構図としては是枝監督「怪物」に似ていると思った。つまり「ピギー(豚=家畜=非人間)」とは「誰」だ!?と。
ただ、各登場人物の過去が分かりづらい。「そこは想像で埋めてくれよ」という描き方になっている。けれど「想像(憶測?)で埋めた過去で人をピギーかどうか判断していいんだっけ?」という問題が出てくる。そこがどうなんだろうと思う。

ともあれ。映画は冒頭の肉屋での精肉シーンに象徴されるように「区分のあり方」を問う。

確かに包丁で肉を切るのはお客の役に立って「よいこと」だ。けれど同じ包丁で人を切れば「悪いこと」となる。とはいえ、客観的にみれば(例えば神の目からみれば)、そこに大した違いはあるか?と。

同様に「体形を気にすること」は良きことであり「気にできないこと(過剰な怠惰)」は悪であると。また、「コミュニケーションに気を配ること」は良きことであり「気を配れないこと(過剰なコミュ障)」は悪だと。

けれど「過剰な〇〇は悪」だと「過剰に排除(いじめ)」することは良きことか?「過剰は悪」と言うが、それを排除しているお前も「過剰」ではないか?と。

包丁で切断するように線が引かれ、線の内側は「〇」、外側は「×」と割り振られる。だが、本当にそういうことでいいのか?「内側は〇」というが本当に〇なのか?「外側は×」だというが本当に×なのか?

前段でこういう問いを投げかけておき、後段で一気に揺さぶりをかけるというプランだということが見えてくる。

プラスで言えば、映画は、この傾向に「現代性」を見ているのかなと思う。つまり、主人公のマンマがそうであるように「昔はそれほど体形体形言ってなかったのでは?」と。けれどSNS時代になって「過剰な〇〇は悪だと過剰に排除する傾向」が加速したのでは?と。自分はスペインの過去をよく知らんので本当にそうなのかどうなのかはよくわからない。ただ、一般論として言えば、そんな気もする(実際どうだかは知らんけど、、)。

さておき。社会に様々な線が引かれ、内側は「〇」、外側は「×」と割り振られるが、それは本当か?と。

この図式が頭に入ると、主人公の「豚ちゃん」と、殺人鬼(無敵の人?)のラブストーリーの意味が見えてくる。それが善か悪かは別として「美しい」ものに見えてくる(ということを狙っているのだと思う)。

2人は共に社会の線の「外側」に割り振られ、「×印」をつけられているが本当にそうなのか?神の目からみてもそうだろうか?と。

映画はそう投げかけつつ、殺人鬼を思ってオナニーをしながら下血する巨漢の少女と、それを見守るキリスト像を映し出す。その血は、恐怖のあまりクラスメイトが拉致されるのを傍観してしまった時に流れた小便と同じく「不浄」なものではあるが、ここでは、彼女が「人であること(豚ではないこと)」の象徴となっている。それはとても「崇高」な光景だ(ということを狙っているのだと思う、、、)

だからこそ主人公はラストで「人としての行動」をとる。ラストブロックを観るには「善きサマリア人の譬え」を想起しておいてもいいかもしれない。

たぶん、この映画全体のモチーフにもなっていると思う。

ざっと言えばこんな寓話で。言い出したのはイエス・キリストだが、彼が生きていた当時は、ユダヤ教が強く、中でも大司祭、司祭、レビ(法律家)が偉かった。で、イエスはこんな話をする。

ある人が、追いはぎの暴行に会い、半殺しにされたと。水泳中に服をはぎ取られた「豚ちゃん」のように…。はたまた拉致されたクラスメイトのように…。
そこに司祭や、レビが通りかかる。だが、彼らはスルーし、去っていったと。当時、ユダヤの教えでは「死体には7日間は触れてはいけない」とあったためだ。「もし死んじゃってたら法に触れちゃうじゃん!」と。
こうして「ある人」は放っておかれるが、今度はそこにあるサマリア人がやってくる。サマリア人は当時「異民族」と差別されていたが、彼は、「ある人」を抱きかかえると宿屋に連れていく。で、「手当してやってください」と。
この時「”人として”立派なのは誰ですか?」と。つまり「そう決まっているから、そう動く」のと、「心から、そう動く」のと。どちらがより「善き人」ですか?と。

映画もこれにならう。ラストブロック、主人公は、殺人鬼の殺人工場に捕えられているクラスメイトをみつける。これまで主人公を「豚だ豚だ」といじめてきた女たちだ。

だが、今は囚われの身。もはや、それまでの立場にはない。にもかかわらず、彼女たちは「豚!早く助けろよ!」「役に立たねえな!」と、まだ言っている。

自分たちがいる社会は「体形に気を配るのが善」。そう決まっていることをやれているのだから自分たちは善だと。そう決まっているんだから助けろよと。

正直、「こいつらは〇んでもしゃあねえな」と思う。だが、主人公は、クラスメイトを殺ろうとする殺人鬼を殺り、彼女たちを解放し去っていく…

つまりは、人が殺られそうな場面に遭遇すれば「助けたいと心が動く」のが人間であり、人がひん死の状態にあれば「助けたいと心が動く」のが人間だろうと。そう決まっているかどうかじゃねえんだよ、と。

だからこそ、それまでの「美しい恋」を捨て「人として」動いたのだった。さて、「ピギーは誰だ!?」と。

いろいろ足りてない部分もあるが、言いたいことはよくわかる映画だった。それに加えて、まだまだヨーロッパではキリストは強ええんだな、と。だって、重要な場面で仏壇が出てくる映画とかないもん、日本には(笑)。
JFQ

JFQ