寶井秀人

劇場版 Gのレコンギスタ V 死線を越えての寶井秀人のレビュー・感想・評価

5.0
こんな世界に生きたい、とGレコを見る度に何度も何度も自分自身に述懐してきた。
正直なところを言うと、見始めた当初は何が何だか分からなかった。聞いた事がない固有名詞に、宗教と宇宙エレベーターが混在した掴みづらい世界観、そして海賊とは到底思えない宇宙海賊。しかし、この面白可笑しい奇妙な世界になんとかついて行こうと、用語を世界をキャラクターを調べに調べ、見つけたのは現実世界では到底たどり着くことの出来ない、あまりにも大きい人生の喜びだった。
そうなると人生の喜びとは何か、という話になるのだが、ここでの喜びとは「人間として、全てを発散するかのように力強く生きること」だと思う。

Gレコは怒涛の展開の速さと説明不足によって、視聴者の理解が成されず、環境破壊に対するアンチテーゼだとか、理解を難しくさせ分からないことを体験することが本題という見方もあるようだけれど、もちろんそう捉えることも可能ではあるが、実際には「人間賛美の喜劇」と捉えれば簡単に理解できるし、説明もつく。では、なぜこの作品のテーマが人間賛美なのかだが、これは非常に単純な理屈で、Gレコの世界は第2のルネサンス期だったということにある。それもそのはず、中近世ヨーロッパとGレコの世界は怖いほどに一致している。
まず、下暗しかもしれないが、レコンギスタ=レコンキスタ(国土回復運動)なのだから、この世界は15世紀〜16世紀の中近世ヨーロッパの映し鏡なのだ。Gレコの舞台は、かつての宇宙戦争によって荒廃した世界が徐々に復興していくも、技術が限定され、戦争への防波堤として宗教による封建的社会が形成された時代。
これを中近世ヨーロッパに当てはめてみると、宇宙世紀=ローマ帝国の栄光とその崩壊、MS等技術の保存独占=富裕層による学術の保存独占(カロリングルネサンスとかラテン語の聖書とか)、そして、ベルリたちが住むキャピタルテリトリー=バチカンとなる。
15世紀、中世ヨーロッパは大きく変動し、近世へと移り変わった。その原因と言えば、①レコンキスタを含む十字軍遠征によるイスラムとの接触、②教皇権の衰退、③経済的繁栄、④ビザンツ帝国崩壊による知識人の流入、等があげられる。ここで重要なのが地理関係で、カトリック中心のヨーロッパ社会=地球、イスラム社会や東南アジア=トワサンガやビーナスグロゥブとなる。ちなみにトワサンガがイスラム社会でいいと思うんだが、ビーナスグロゥブの位置づけが微妙。フォトンバッテリー=香辛料と考えればその経路的には間違いなくその図式が当てはまるけれど。実際の歴史と大きく異なるのは、レコンキスタを行ったのがトワサンガとビーナスグロゥブだったこと。逆になっているので分かりづらい。
一連の事件は、アメリアがヘルメスの薔薇の設計図を入手したことが発端だが、それをもたらしたクンパ・ルシータはビザンツから流入した知識人となり、ビーナスグロゥブに接近しようとするアメリアやキャピタルアーミーはイスラム社会に接触した欧米諸国となる。アメリアやゴンドワンのタブー破りやキャピタルアーミーの増長は教皇権の衰退を意味しているわけで、特にタブー破りについては教皇権衰退だけでなく宗教改革的側面もありそう。
この時代、文明の発展に一役買ったのが対外進出。各国の王が挙って船を建造し、大航海時代の幕が切って落とされたわけだが、Gレコの世界ではメガファウナ、サラマンドラ、ガランデンがそれぞれにあたる。実際、コロンブスやマゼラン、バルトロメウディアス、アメリゴヴェスプッチらはその後ヨーロッパ社会を大きく変動させる発見をした。
こんな感じで当てはめていくと2つの状況は非常に酷似していることがわかる。異なる部分もあるけれど、モチーフとしているのは確実にこの時代だろう。
ではなぜGレコのテーマが人間賛美なのかという話。
この世界は第2のルネサンス期という話はした。ルネサンスはローマギリシア文化の再生を意味していて、もちろん各国が宇宙世紀の遺産を復興させたことにも繋がるのだが、思想面での進歩も大きなものがあった。中世ヨーロッパは暗黒時代などと呼ばれていて、実際にGレコの世界も憶測ではあるけど少し前まで暗黒時代を迎えていたはず。クンタラが生まれた原因の食糧危機なんかまさにその要素の1つ。封建的で宗教中心の暗い世界から人間を解放し、自由を求めるヒューマニズムの思想が中世ヨーロッパと同様にGレコの世界では興っている。
ヒューマニズムは個人の自由と人間性の尊重が軸となる。Gレコのキャラクターの自由さと言ったらもうそんじょそこらの物差しでは到底図れない。クリムニックもマスクもマニィもドレッド艦隊もジット団もただひたすらに自身のあるべき姿をがむしゃらに追い続けている。ニックは天才としてあるためにひたすらに戦い、マスクはクンタラ地位向上を目指すためにかつての自分を捨て、マニィはルインを取り戻すために伸ばしていたロングヘアーを切ることも厭わなかった。そんな彼らから感じ取れるのは、束縛から開放された人間らしさの可能性。未知なるものへの探求、理想的な人間社会の形成、感情の爆発、彼らはヒューマニズムで言われる真の人間性を持つ人間たちなのだ。
人間を真に人間たらしめているエネルギーがキャラクター達には溢れている。そのエネルギーこそが我々現代人、日々の重圧に苦しみ、未来を未来と思えず、ただひたすらに感情を無にして動き続ける機械のような存在、に必要な正のエネルギーであることは間違いない。
そして、喜劇であること。Gレコでは決してバッドな感情を視聴者に持たせない。何があっても彼らは必ず前をむいてやってみている。死んでいった人たちも生き延びた者たちと共に精神世界で手を繋いで歓喜を歌っている。溢れ出るエネルギーのまま真っ直ぐに、偽りのないように生きた結果が死であったのならそれはそれで仕方ない。悔いがない死を迎えるためにひたすらに生きる必要がある。

僕は、我々の人生は「死」という最悪のラストに向かっていくものなのだから、せめて物語だけはハッピーエンドで終わって欲しいといつも切に願っている。ハッピーエンドを迎えられない僕達に変わって、物語の登場人物にそれを託したいのだ。そして、Gレコの登場人物たちは、僕の馬鹿みたいな願いを託すに相応しい阿呆達だった。実際、彼らは幸せ溢れる平和な新時代を作ったに違いない。阿呆と言ったら怒られるのかもしれないが、実際それは間違いないだろう。馬鹿みたいに純粋な彼らの有り余るエネルギーを摂取することでしか得れない栄養が間違いなくある。敵味方人種性別関係なく、手を繋いで人間性回帰の凱歌を奏する。天使が舞い、雲が踊り、空は輝く、まるでティエポロの絵画のような喜び満ち溢れる虹色の世界。そんな世界が確かにあった。その事実に、閃光のような喜びが体中を駆け巡る。
寶井秀人

寶井秀人