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クラークスのkuuのレビュー・感想・評価

クラークス(1994年製作の映画)
3.8
『クラークス』原題Clerks.
製作年1994年。上映時間93分。

コンビニで働く22歳の青年ダンテは、休日に店長からの電話でたたき起こされ、早朝勤務を引き受けるハメになっちまう。
しかもその日は客にタバコを投げつけられたり、恋人から過去の意外な性的体験を聞かされたり、元彼女の結婚を知ったりと災難続き。
嘆くダンテに、さらなる事件が降りかかり。。。

今作品は、ダンテの『神曲』に大まかにやけど基づいているため、主人公のダンテ・ヒックスって、名前が付けられたそうです。
また、映画には地獄の9つの輪を表す9つのブロックに話が分かれてますが、感覚的には9以上あるような気がしなくなくない。
抱腹絶倒のコメディとは云わないまでも、各小話は面白いし、会話の内容も惹かれるものがありました。
コメディで元カノ、元カレの話、映画の話、客の批判、そして、クソバカな話が多数しめてるけど、お気軽なイカれハッピー野郎たちの日常に見方によっちゃ哲学的な話みたいな部分もあり、会話の安っぽさを含め、なにかと皮肉ってくるのがまた面白さを増してました。
毒気のあるセリフや風刺が効いいたセリフや、自分らなりの哲学や美学のようなモンもあり、少しは考えさせられる部分もありましたが、まぁ、別に深く考えなくてもいい、彼らのノリのお気軽に観れる作品やと思います。
だからどないした?レベルの会話やけど、観てジワジワとハマってしまうと飽きのこない作品かなぁ。
ヘンテコな映画のようで、
ヘンテコじゃない。
ヘンテコじゃないようで、
ヘンテコな映画。
色即是空。
空即是色。😊みたいな?
現実的やけど、
現実的じゃない。
日々のアルアル感じを描くけど、
微妙にホンマビミョーに逸脱してて、
アメリカンした映画でした。

余談ながら、予算のない中、ロケ地になったコンビニは、ケヴィンスミスが実際に働いていたコンビニで、夜の時間しか借りられなかったから、シャッターは閉じたままの設定になったらしい。
また、キャスト約50人の内、48人は、ほぼ素人を起用しているらしい。
そんな苦行のおかげか、予算27,000㌦に対して、アメリカでの興行収入は3ミリオン㌦。
50劇場にも満たないのにぃ凄くとんでもない成功例っすね。

ダンテ与太噺。
ダンテはウェリギリウスに導かれて、地獄からはいあがってきた。
一応、煉獄は南半球にあるらしいし、煉獄さんは『鬼滅の刃』の推し。
カトーに出迎えられ、船でついた魂たちと煉獄の山を目指す。
煉獄(Purgatory)は古代にはなく、中世にできあがった概念らしいっす。
ダンテによればっすが、死者の魂てのは現世で逝ってまうと、海を越え~て🎵、煉獄に運ばれてくる。
あの世を海の向こうと考える日本神話の一部ともなんとな~く似ている。
煉獄は死の前に神と和解した魂が、
七つの大罪(プラピ主演の『セブン』でお馴染み?)
高慢
嫉妬
怒り
怠惰
貪欲
大食らい
色欲
を清めるところで、ダンテは煉獄の入口で天使に
七つのP(peccato:イタリア語の「罪」)
を額に刻印されてもて、煉獄の七重の山を上っていく。
一つの罪をみるごとに天使にPを消してもらい~の、賛美歌が聞こえてきて、身が軽く~なる。
地獄は下りだが、煉獄は上りガッタンゴットん。
高慢の罪の魂は岩を負わされ、
嫉妬の魂はただ座り込み、
貪欲の罪は寝そべることを強いられ、色欲の魂は火で灼かれる。
オモロイ所じゃ
『大食らい』の罪を犯したヤツの魂は痩せこけている。
ダンテは食物を摂る必要のない魂がどうして痩せこけるのかと疑問を発する。
ここで、煉獄の浄罪を終えて旅を共にするスタティウスが答える。
スタティウスは西暦50年前後の詩人で隠れキリスト教徒だったという設定。
ウェリギリウスを尊敬している。彼の知識では、心臓の血から精液が生じ、『自然の器』(子宮)で血と結合し、生命がうまれよるが、その脳を作るに及び、魂が生じる。
魂は死んでも、その活動をやめず、生きていた時と同じく形成力によって霊魂の体をもつようになる。
これを鏡が姿をうつす例で説明する。要するに死んでも体があるから、痩せこけるってすんぽう。
この他にも水蒸気が冷やされて雨になるとかの気象学の知識も披露されとる。
ダンテとウェリギリウスとスタティウスは七つの大罪の浄めを通りぬけ、最後の炎を通り抜けると、頂上のエデンの園で、ベアトリーチェと再会する。ベアトリーチェはいきなりダンテを叱りつける。
ダンテは9才のときに、ベアトリーチェとはじめて会い、18歳のときに再会、その後、ベアトリーチェは銀行家に嫁いで、25歳で死んだ。
要するに初恋の人。
天国に上ったベアトリーチェは、ダンテが自分が死んだ後に他の女性にうつつを抜かし、身をもちくずして、このままでは地獄落ちになるのを心配して、ウェリギリウスに泣きついて、ダンテに地獄と煉獄をみせたのであった。
ダンテは十年ぶりに会ったベアトリーチェからガキのように叱られて声もでない。
それでも、なんとか前非を悔い、マテルダに助けられて忘却の川レテで罪の記憶を洗いながし、ダンテはベアトリーチェとともに天に昇ることになる天昇。
35歳のエエ年をした野郎が、初恋の人に子供のように叱られる話やけど、仏教でも観音さまは慈悲深い女性のようやし、なんか恋した人に叱られたい願望って野郎にはあるんかなと思う。
ウェリギリウスは第30歌で静かに姿を消す。
ベアトリーチェは結構自意識過剰。
私がその中にいた美しい肢体ほどお前の目を喜ばせたものは自然にも人工にもありませんでした。
その肢体はいまは大地へ塵となって散りました。
私が死に、それで至上の喜びが脆くも失せたというのなら、どうしてはかない現世のほかのものがおまえの心を惹き得たのでしょうか。。。
ダンテ『神曲』地獄篇よりっす。
 
ダンテ(1265-1321)はフィレンツェに生まれ、法王党として政治にかかわり、1302年、故郷を永久追放された。『神曲』は1300年頃の設定で書かれてる。
ダンテの敵が地獄で手ひどく罰せられ、大便のなかでのたうちまわっていたり、自分の首を提灯のようにさげて彷徨っていたりする。
師匠がじつはソドミー(男色の罪)を犯していて、引かれていく途中だったり、亡者が地獄の鬼(悪魔?)に鞭打たれていたり、貪欲な亡者がぐるぐる回って、ぶつかって罵りあったりと、地獄はまあそんな所である。
冷たい雨が降ったり、火の粉が絶えず降ってきたり、空気がくさっていたり、ときどき、ケルベロスだのミノスだのミノタウロスなどの怪物や、巨人がでてきて、悪態をついたり、予言をしたりする。
キリスト教徒じゃなかったホメロスは辺獄(リンボ)の片隅で淋しくしている。マホメットやアリーは二つに裂けている。
キリスト教を分離させた者に応報の罰らしい。
たぶん、現代の映画なんかで消費しつくされたイメージだからだろうか、偉大な作品ではあるんだろうが、内村鑑三のように身の毛がよだつこともなく、こんな所かと読んでいる。
地獄篇が面白くないのは、ダンテが敵を根性悪に痛めつけているからもあるけど、そこには人間の生活がないからちゃうかな。
ちなみに地獄でも、派手に痛めつけられている主人公は大悪人で、凡人は地獄に落ちても悪役。
悪人としては、恋に身を忘れた者から、偽金作り、裏切り者までたくさんいて、みな因果応報の罰をうけている。
貪欲なものは生前自分がサイフにつめこんだように、地獄では自分が穴に詰め込まれていて、足だけでていたりする。
ウェルギリウスとダンテは地獄を底まで下りていき、地球の重力があつまるところで、悪魔大王(ルシファーとかベルゼブルとよばれる)をみる。 大王はキリストを裏切ったユダと、カエサルを殺したブルータスとカシウスを三つの首でかみ砕いている。
彼らは悪魔大王の毛をつたって、南半球にでていくのであった。
『神曲』の神は形容詞で、
『神のごとき』の意味で後に冠せられた。
もともとの名称は『コンメーディア』とのこと、
『ハッピーエンドの話』の意味だったけど、のちに転じて、『喜劇の意味になった。
『光も黙る』とか
『年老いた裁縫師が針に糸を通すような目つき』とか、ウマイ!って思う比喩はある。
『神曲』はイスラム圏では悪魔の著らしい。
平川祐弘(『マテオ・リッチ伝』の著者)による注釈は詳細、カーライルやブルクハルト、正宗白鳥や内村鑑三、与謝野晶子などの意見を事細かく、引いてくれてるし、訳として読みやすい。
『神曲』はその後の地獄のイメージなどに影響を与えた作品で、中国に宣教したイエズス会士などの頭にもあった作品やと思う。
長々と何の話書いてんだか🙇‍♂️。
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