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警視庁捜査一課 ルーシー・ブラックマン事件のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

「正しさ」について色々と考えさせられた作品。
本作は、2000年に起きた「元英国航空CA ルーシー・ブラックマンさん失踪事件」の顛末を追ったドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとは言うものの、シャレた感じで撮ってるので一瞬フィクションかと見まがう。刑事ドラマじゃないんだから「ブラインド越しに外を見るボス」って(笑)
「はい、窓の外を意味深に見てもらっていいですか?3・2・1…」みたいな光景が浮かんでしまう…。

さておき、概略を追っておく。事件は2000年7月、六本木のクラブから始まる。イギリスの元CAだったルーシーさんは思うところがあり観光ビザで来日。友人とゲストハウスに滞在しながら夜の店で働いていた。
だがある日を境に姿を消してしまう。友人が失踪を疑い警察に駆け込む。だがオーバーステイ問題で姿を消す外国人が多いこともあり、警察は本腰を入れなかった。ところが、ルーシーさんの父が奮闘。すぐさま来日。記者会見を開いたり、警察と何度も面会するなど「精力的に」活動する。このことで事件に注目が集まり始めると、当時の英国ブレア首相も事件の捜査強化を要請。通常4~5人体制であたる事件は、100人規模で捜査されることに。
その際、急遽呼び出されたのが、本作の主役でもある捜査一課・山代悟氏をリーダーとする「山代班」。彼らは、すでに捜査している先輩たちの後追いで事件を追うことになる。映画では「●●はさながらスッポン刑事ですな」「××は思いが先走るところがあるが正義感は強く…」みたいな、山代ボスによる「班員紹介」があり「キャラ強刑事ドラマじゃないんだから」とツッコミたくなる。
さておき。後追いで捜査を始めた山代班は、ある巡査の日報から犯人の手がかりをつかむ。そして紆余曲折あって、逗子に別荘を持つ資産家の織原城二を容疑者と認定。織原は「征服プレイ(織原命名)」が好きらしく、外国人女性を連れ出してはクロロホルムで意識を失わせSMを行っていたようだ。その過程で、ルーシーさんを殺めてしまったのではと山代班は分析。だが、織原は断固として自白を拒否。そのため「自白なしの遺体捜索」という前例のない手段がとられることとなるが、それが見事に功を奏し「捜査の打ち切り寸前」で遺体を発見。立件に成功するのだった…。

自分がまず考えてみたいと思ったのは、その後の裁判の事で。結果に奇妙な感覚を抱いたのだった。
ただ、この「奇妙な感覚」を語ろうとすると結構込み入った感じになってしまう。。

ともあれ、まずは、裁判結果の概略をみておく。映画を観ていると「そりゃ、こんな極悪人、極刑でしょ!」という感じがするが、一審では「無罪」の判決が出る。
そこで検察は上告。すると、東京高裁は判決を変え、検察側の主張を一部認定。ルーシーさんに薬物を飲ませて暴行しようとしたこと(準強姦未遂、わいせつ目的誘拐)、遺体を切断し捨てたこと(死体損壊・遺棄)を認めた。
だが、ルーシーさんを死なせた(準強姦致死)事については”認定しなかった”。「織原が行った他の9つの”征服プレイ事件”と同じ手口で暴行したと推認できないわけではないが、個別の事件で事情は異なり、その『推認力』には限界がある」とし、準強姦致死罪は成立せず、準強姦未遂罪にとどまると判断している。
映画は、山代班の無念を映しつつ「この判決はどうなんだ?」というニュアンスで描いている(と思う)。他のレビューでも「これは日本司法の問題だ」という意見も多い。

けれど自分が「奇妙」だと思ったのはそういうことでもあり、そういうことでもない(どないやねん?w)。
この感覚について、①原則、②現状、③今回の順で思ったことを書いてみたい。

①原則。固い言い方でアレだが近代国家は「国民主権」が原則。これは言うなれば国民が「雇い主」であり、政治家・官僚は「雇われ側」という事だ。そのためもあり「雇われ側」が「雇い主」を誤って「処罰(冤罪)」してしまうのは「ご法度」とされる。「ご法度」というのは「神の目からみてやってる人」を無罪にしてしまうより、「神の目からみてやってない人」を有罪にしてしまう方が”より悪い”ということでもある(100人の罪人を野に放つとも、1人の無辜の民を刑すなかれ)。
なので、近代裁判は「疑わしきは罰せず=推定無罪」が原則となる。もし「神の目からみてやっていた」としても「雇われ側(警察・検察)」にズル(過度な自白の強要とか)や証拠不十分があれば「即無罪」。「灰色」ですらなく「真っ白」とされる。「この設定」にいろいろ言いたいことはあるかもしれない。けれど「こういう設定」で近代社会は動いている。

②現状。けれど日本の現状はそうなっているかというと「?」がつく面もある。例えば映画でも言われるように、検察は「自白偏重主義」で、暴力的な自白強要が多々行われるともよく指摘される。そのうえ、検察が立件すれば「99%有罪」(そういうドラマもあった)。これは検察が「勝てると踏んだ案件」だけ裁判に持ち込むからでもあるし、「その確率の出し方は変」みたいな問題もある。けれど、素朴に考えて「刑事裁判の99%が有罪」とはおかしな話で。「裁判官、ちゃんと仕事してんのか?」と思わなくもない。そんな現状だ。

③今回。にもかかわらずルーシー事件の判決は、1審で「無罪」。2審でも「核心部分は有罪とはいえず」となっている。まず、「これは何なんだろう?」と素朴に思ったのだった。いつもどおり「99%有罪」で検察の思惑にのっかってもよさそうなものだ。そのうえ今回は英国も注視する「政治案件」だ。なのに「なぜ、そっちに行った?」のかと。これがまず奇妙だった。

さらに、これをどう評価するかで輪をかけて「奇妙な感覚」になった。自分は専門家ではないけれど、この判決は「わからんでもない」と思った。そう書くと「自分がルーシーさんの遺族でもそう言えるのかーー」と叱られそうだし、自分が遺族だったらそうは言えないと思う。自分も「織原はやばい奴」だろうと思う。けれど「遺族でないからこそ」言うべきこともあると思っている。

そのうえで言うと、他の9件の「征服プレイ事件」よりも、ルーシー事件は物的証拠が少なかった。これは映画内でも刑事が語っていたことだ。だから裁判官は核心部分で有罪判決を出さなかったのかもしれない。

ただ、そう書くと「なるほど。お前は、裁判官偉い!ちゃんと①の推定無罪を貫いてる!と言いたいんだな」と思うかもしれない。

例えば、映画では先輩たちの捜査に意見するのは「はばかられる」と言って、他班の刑事たちが帰ってから山代班で「先輩の捜査ノート」を覗き見していた…みたいな証言がなされる。わからんではないが、正直、まともな捜査体制ではないと思う。そういう捜査の元に立件されたものを鵜呑みにしないのは、それはそれで見識があるようにもみえる。

けれど。映画でも語られているが、今回は「自白」が取れなかった。織原が断固自白を拒否したからだ。ここで!もし、裁判官が「自白が取れたら有罪」「自白が取れなければ非有罪」のように機械的に判断していたらどうだろう?「お前はロボットか!」と。そう思うんじゃなかろうか?けれど、「ない話じゃないな…」と自分は思ってしまった…(苦笑)。
だから「どう考えたらいいんだろう?」と奇妙な感覚を覚えたのだった。

判決は「正しい」のか?裁判官が「正しい」のか?裁判官が見た目に正しいとして、彼らは「正しさ(①原則)」に則って正しい判断をしているのか?いや、普通に考えて「ヤバい奴」にそれ相応の鉄槌を下せない「近代国家の設定」とは本当に正しいのか?いや、「普通に考えてヤバい奴」と、神でもないのにどうして言い切れるのか(言い切れると思う心が冤罪を生む)?「正しい」とは何なのか…?

あと、もう1つあるのはネットの反応で。この事件に関し「織原が在日(朝鮮人から帰化した日本人)なのに伏せている」と盛り上がっている人たちがいる。この反応についても「正しい」とは何なのか?と考えさせられた。

自分は素朴に考えて、織原が「在日」だったら事件の評価が何か変わるんだろうか?と思った。なぜ、そこに強いこだわりを示すかが分からない。例えば織原が「タイ人から帰化」したなら、そこまで盛り上がるだろうか?「織原が元タイ人であることを報じないマスゴミは腐ってる」とか、、、

いや、そういう皮肉以上に思ったのはこういうことで。先に「織原が「在日」だったら事件の評価が何か変わるのか?」と書いた。だが、ある種の人にとっては本当に「変わる」のかもしれないと。そう思ったのだった。
つまり「司法が問題だ」と言っているのは「織原のような在日を極刑にできない司法は問題だ!」と。そう判断したのではないか?と。

もし仮に、この事件が「ルーシーさんが韓国人で、犯人が”純”日本人」だったらどうか?こういう人たちは判断を変えるんじゃないか?
「いや、この韓国女、観光ビザで働いてるんだろ?そもそもアウトじゃん!」と。「司法はまともな判断だよ」「推定無罪をわかっていて実に賢明だ!」「いや一審が超絶正しい!高裁ひよるな!」と。そっちに行くんじゃないか?

「あの韓国人DJ、乳放り出しといて、触られたとか自業自得じゃん!」みたいな意見で大盛り上がりする国だ。ない話じゃない…。

だとすれば、属性によって変わる「正しさ」とは何なのか…?そもそも「正しさ」とは何なのか…?映画をみてそんなことを思ったのだった。
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