TakeBtz

哭悲/The SadnessのTakeBtzのレビュー・感想・評価

哭悲/The Sadness(2021年製作の映画)
-
残虐、血みどろ、エロティシズム、全てを取り揃えているのに、奥行きがない!

凄く惜しい映画だった!

【※この投稿はnoteのレビュー記事の一部を抜粋したものです。レビューの全容を知りたい方は1番下のリンクからnoteを覗いていただけると幸いです】

この映画は言うまでもないが、ある種のゾンビ映画 の1ジャンルである

コロナ禍で製作された作品であり、その内容も新型ウイルスの感染で人々が凶暴化、パンデミックにより台湾全土が大パニックになる中、男女が再会を誓いサバイバルするという内容

ゾンビ 物には既にいくつもある語り草で、過去作だと『ドーン・オブ・ザ・デッド(ロメロの『ゾンビ』のリメイク版)』『28日後』続編の『28週後』や『新感染』のシリーズ、邦画なら漫画原作の『アイ・アム・ア・ヒーロー』などが表現的にも近く感染者は走ってやってくる

ただし一連の作品群と明確に違うのは、感染者の狂暴化した行動は自らの意思の開放によるところが大きく、実は感染者たちは狂暴化する前と同様に意思や思考が備わっているということだ

つまりはこのウイルスの設定は、厳密にいえば「人々を無思考に"狂暴化"する」のではなく「欲望を抑え込んでいた理性を"無力化"する」ところ

理性が極端に効かなくなった人々は、根源的な欲求を抑えられなくなり、攻撃的に衝動の赴くままに強姦や殺人を行こなう。

ただ頭の片隅に理性的な感情が残っているので、その行為への衝動が抑えられない恐怖と悲しみに、感染者たちは涙を流しているという設定である

この設定は本当に素晴らしいと思う
ゾンビや感染者という「人外」の存在になってしまった者たちの中に真に人間的(性善説的)な感情が存在しているという、かなり哲学性を高めそうな設定なのだが…

この素晴らしい設定を今作は発明しておきながら、全然活かし切れていない!本当に惜しい作品になってしまった。

【今作が描く「人間性の前提」は正しいのか?】

「人間性の本質とは一体、何なのか?」

そんなことをこの映画を観ていると考えさせられる

それは性善説とか性悪説といった二元論で簡単にすまない話だが、今作では明らかに性悪説に沿って人間の本性が定義付けられている

実は人間性の本性や本質が悪意に満ちていて、だからこそ社会秩序や法がそれを抑制しなければならないという「性悪説」的な視点は長らく当然の前提であるように考えられてきたが、近年そういった視点や思考を批判する動きがある

ナチスのユダヤ人虐殺がなぜ起こったのかを検証したミルグラム実験や監獄実験の数々で、人間の本質は悪であるという定義が長年なされ、それは真理のように考えられていた

しかし、近年の再検証で実験中の参加スタッフや協力者が実験主催者の意図を慮って意識的に結果を誘導するような働きがあったことが判明したり、戦場の兵士たちは積極的に戦闘に参加しないように努力していたとか、そういった人間性本質の意外な側面を詳細にレポートした書籍『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』なんてものもある(この本、面白いのでオススメです)

さて話を戻しますが「感染者は衝動を理性で抑え込めずに攻撃的になる」わけですが、動物の本能としての欲求や衝動と、社会生活を営んでいる文明圏内にいる人間のそれとはかなりの齟齬がある気がする

「衝動に抑えが利かなくなる」なら一部の人々が暴力的になったり、性的な欲求を満たそうと強姦に走ることはあるだろうが、高級品欲しさに盗みたい衝動もあれば、仕事に嫌でずっと引き籠ったり、撮り鉄の感染者は人間より電車への衝動が勝って駅になだれ込むのではないだろうか

こんな突っ込みを入れるのは野暮だが、全ての感染者が暴力や性衝動に支配され、涙を流しながら蛮行に及ぶのはいささか性悪説に振り過ぎではないかと感じる

余談だが、ゾンビ映画には"ゾンビに意識ある系"の系譜があることはゾンビ好きの中では当然だが、その代表作といえばモダンゾンビの始祖である ジョージ・A・ロメロ の『ゾンビ』ではないか

この映画の中で登場するゾンビは、なぜか多くがショッピングモールに集まる

それは「生者であった頃の微かな記憶がそうさせている」というセリフが物語るように、ロメロから言わせれば目的もなく週末にショッピングモールに集まり必要のない商品を何となく買い漁る。消費を謳歌するだけのバカな大衆への「あいつらはナマの人生を生きてねーじゃねーか!」という批判があり、ロメロが再構築したゾンビというモンスターは元来から社会的な存在だった

皮肉にもこの『哭悲~』には人間の本来の持つ欲求と衝動が表出するという点においてロメロの『ゾンビ』に非常に近しいのだが、その表現のカタチが暴力と性だけに絞られていて非常に稚拙でスケールが小さいのである。

ひとりで堪能できる娯楽があり過ぎ、人とのリアルな関わりが希薄な現代において、その衝動が性と暴力という二択で生々し過ぎるのは少々違和感を覚えた。

現代社会なら結構な数の感染者が引き籠るのではないだろうか。

【オリジナルの記事はこちらから】

https://note.com/da_bun_takebtz/n/n846bfde01a6e
TakeBtz

TakeBtz