くまちゃん

哭悲/The Sadnessのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

哭悲/The Sadness(2021年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

新型コロナウイルスの世界的流行は2019年から始まった。その後約3年、我々は感染のリスクに怯えながら厳しく制約された生活を余儀なくされた。この異常事態は人々を激しく戸惑わせ苦しめた。そんな抑圧された環境が世界各国のクリエイターを刺激し様々なコンテンツが創造された。今作もその一つである。
感染していくという点で実際の疫病とフィクションのゾンビ映画は似ている。だが今作では未知のウイルスが人間の抑えられた欲望を増幅し制御できなくなるという新たな切り口でゾンビ映画との差別化をはかっている。また感染者は死者ではない。性衝動と攻撃衝動に駆られても意識はあり、自我があり、自身の言動への認識もある。それでも止まらない。理性を破壊するほどの強い欲求。申し訳ないとは思いつつも浮気や不倫、性犯罪に手を染め、行為の後にジワジワ罪悪感が心を埋め尽くすのと似ているだろうか。彼らは涙を流す。それが自我が存在する証拠だという。彼らの苦しみは悲しみは計り知れない。人間の持つ慈しみと優しさを否定するアルヴィンウイルス。アルヴィンとは英国系の名前で「精霊なる友」に由来する。なんとも皮肉の効いたネーミングだ。

カイティンとジュンジョーは観客に寄り添いアルヴィンウイルスと対をなすように描かれている。カイティンは抗体があるのか体液を浴びても感染しなかった。ジュンジョーは途中幻覚が見えはじめ、最終的に感染してしまう。ただ隣人にハサミで襲われた際指を切断されてしまったジュンジョーの反応はあまりに淡白で人間味に欠けている。叫び声一つあげない。ただただ苦悶の表情を浮かべるのみ。まるで拷問の訓練を受けた兵士のようだ。

電車でカイティンの隣に座ったサラリーマンは何かとカイティンに話しかけてくる。よく電車で顔を合わせるカイティンに好意をもったからだ。この心理は理解できる。特定の人や物に繰り返し接触することで好意度や印象が高まる。これは単純接触効果と呼称され誰にでも起こり得る。だがこのサラリーマンの接触の仕方が他人としては異様でありストーカー的な気持ち悪さ嫌悪感を抱く。仲良くなりたい、友達になりたいと彼は言うがそれはカイティンが美人だからにほかならない。それはカイティンが助けた女性に対する扱いを見ても間違いない。このサラリーマンは恐らくプライベートも仕事も充実していないのだろう。支配欲を満たすためのセクシュアルハラスメント。この男はアルヴィンウイルスに感染しなくてもいずれは性犯罪に手を染めていたかもしれない。女性にモテず、仕事もできず、見た目も冴えない。その鬱憤を少しでも晴らそうとした。よく見かける綺麗な女性と仲良くなり、恋人関係になれなくても一緒に過ごせるだけで自己顕示欲と承認欲求を満たすことができる。さらにあわよくば肉体関係を結びたいと願っている。そこまで行けば性欲も満たされる。この男にはなんの勝算もない。話しかけ方からして女性慣れしていないのがわかる。カイティンが不快に感じている事などお構いなしにパーソナルスペースを侵害してくる。例えトロフィーワイフを得た所でこの男の下卑た性格が改善されるわけではない。それを自分ではわかっていない。感染後、この男はどこまでもカイティンを追ってくる。なんとしても犯し殺したい。それは抑圧された中年のおぞましい執念。

病院でカイティンを保護したのは常々アルヴィンウイルスの変異による危険性を指摘していたウォン博士であった。ウォンは免疫の有無を調べる血清をカイティンへ注射する。が、それはこの産婦人科にいた数人の乳幼児に対しても行われた。ウォンはウイルスに感染はしていない。単純なシラフでの興味、学者としての好奇心故。この切迫した環境だからこそ曖昧になるモラルの境界線。
ウォンはカイティンに血まみれの服を着替えシャワーを浴びるように指示する。その際ガラス越しにカイティンの裸体に興味を示した。しかし覗き以上の行動は起こさない。彼にとって最優先なのは学術研究と保身なのだ。ウォン博士と中年のサラリーマンに人間の持つ醜悪さが集約されている。

今作は映画として優れているものではない。プロットも平凡に感じる。それでも我々の心の不快な部分を刺激するのはコロナ禍の記憶が生々しく焼きつけられているからだ。コロナが蔓延し、ワクチンはできず、死者数に歯止めがきかない危機的状況の中、ドラッグストアの店頭からマスクと消毒用アルコールが消えた。感染に怯える者たちが買い占めたからだ。またネットでは根拠のない情報が錯綜し、それを信じた人たちのパニック購買によって様々な物品が品切れとなった。さらに我欲に駆られた人たちは買い占めと転売を繰り返し利益を得た。当時フリーマーケットアプリではティッシュやマスクが数千円〜数万円で出品されていることも珍しくなかった。この異常事態に発露したこれこそが人間の本質であり、今作はそれをありありと描写している。多くをウイルスのせいにしている所は悪質であるが、同時に台湾ホラー最大の強みでもある。

ただ一つ気になるのは血溜まりの中の乱交に拷問、人体欠損と流血といったゴア描写は恐怖や嫌悪感というより単純に汚い。何事もやりすぎは良くないということだろうか。
くまちゃん

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