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Tchaikovsky's Wife(英題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Tchaikovsky's Wife(英題)(2022年製作の映画)
4.5
["天才はそんなことするはずない"という盲信について] 90点

大傑作。2022年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。キリル・セレブレンニコフ長編最新作、時代劇は初か?チャイコフスキー夫妻を描いた先行作品であるケン・ラッセル『恋人たちの曲 / 悲愴』は未見。1893年のサンクトペテルブルク、当代随一の作曲家ピョートル・チャイコフスキーの葬儀がしめやかに執り行われていた。そこにやってきたのが"チャイコフスキーの妻"こと主人公アントニーナである。すると、横たわっていたチャイコフスキーはのっそりと起き上がり、彼女に向けてこう言い放つ。なぜあの女がいる?と。物語はそこから1872年まで遡り、アントニーナがチャイコフスキーに出会って狂気的な恋慕を抱き続ける様を描いていく。彼女の感情は天気とリンクしており、特にチャイコフスキーを想っている以下五つのシーンでは、基本的に寒々しい室内が、光線まで見えそうなほど暖かな光に満たされている(他にもあったかも)。①音楽院でチャイコフスキーの講義をドア越しに聞くシーン②結婚前にチャイコフスキーを自室に入れるシーン③結婚式の後で馬車に乗るシーン④チャイコフスキーがサンクトペテルブルクへ旅立つのを駅で見送るシーン⑤チャイコフスキーに遠ざけられながらもキーウ近郊の屋敷で彼を想ってピアノを弾くシーン。特に④⑤に関しては所謂セレブレンニコフ・マジックと私が勝手に呼んでいる、長回しの中で大幅な時間経過のある舞台的な場面転換が含まれており、しかも転換後は光が完全に消えて雨が降り始める(まさに感傷の誤謬)。また、ライティングも非常に素晴らしく、後半にかけて狂気に堕ちていくアントニーナを顔に当たる/当たらない光で表現していたのが印象的。チャイコフスキーとの最後の繋がりとして残していたピアノが回収される寸前に、男たちが抱えあげて窓から半分出てるピアノを弾くアントニーナの絶望した顔に当たる絵画的な光の美しさたるや。

興味深いのは、アントニーナ本人からチャイコフスキーへの狂気的な恋慕の核が見えてこないことだろう。一番最初の一目惚れシーン以降は、1秒前(=どうして愛してくれないの)と1秒後(=愛してくれるかもしれない)しか考えてない数学的帰納法みたいな描き方をしているので、意図的にはぐらかしているのだろう。ここで引用したいのはセレブレンニコフがインタビューで述べた言葉である。要約すると、チャイコフスキーはロシアではホモセクシュアルであることは秘匿されてきたこと、そして結婚生活の破綻は全て狂った妻が悪いとされてきたことが述べられている。つまり、本作品はアントニーナの視点からチャイコフスキーを見ることで、彼の伝説を解体しながら、努めて中立に描くことでアントニーナ悪女伝説も一緒に解体しているのだ。そう考えると、悪女伝説そのものが"〇〇の妻"というレッテルの影に隠されたから誕生したものと言えるわけだし、アントニーナの狂気的な恋慕が持続したのは別の原因が考えられそうだ。

劇中で、チャイコフスキーの友人ニコライの家に行ったアントニーナはこんな言葉を掛けられる。"天才は何をしても許される"と。それに対して彼女は"彼ほどの人はそんな卑劣なことをしない"と応える。ここから分かるのは、彼女が愛していたのは彼女の内側で作られた偽物のチャイコフスキーであり、冒頭で登場した"フランス語を操る洗練された天才"という偶像を延々と信じ続けていたということ、つまり恋慕に核などないということだ。数少ない事実から作り上げた本物らしい偽物という存在はサンゴのネックレスという形で画面に登場し、彼女の思うチャイコフスキー像との齟齬=バグは文字通りバグ=ハエとして映画に登場する。ちなみに、ハエの登場シーンは初対面、写真スタジオ、三行半手紙の読み上げなど、チャイコフスキーの本性が明らかになるシーンばかりで、彼女は後に"邪悪な考えがハエのように…"と語っている。そして、その"天才ならそんなことしない"という凡人の盲信は、"天才なら何やっても許される"という"天才"側の言い分(仮にそれが天才でないとしても)を補強してしまっているわけで、現在でも続くこの盲信は様々な形態で"天才"側に利用されてしまっている。

途中からチャイコフスキーが退場してしまうことも含めて、チャイコフスキーじゃなくても成立する空洞感は、"天才"と"凡人"との、或いは本物と心の中の偽物との本来の距離をも感じさせ、正に監督の意図したところだと思うが、逆にチャイコフスキーではないと成立しないテーマとして登場するのが、彼がホモセクシュアルであることだ。印象的なラストでは、彼女が持っていたかった"愛の炎"としてのオイルランプを上裸の屈強な男たちが持って、彼女の行く手を阻むという、正しくアントニーナの頭の中を具現化したような状態になっていた。このシーンはイエジー・スコリモフスキ『春の水』のラストにも似ていて(あっちはペスト、こっちはコレラ)、『インフル病みのペトロフ家』みたいなマジックが炸裂していた。
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