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逆転のトライアングルのroppuのネタバレレビュー・内容・結末

逆転のトライアングル(2022年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

よくやった。
まだ鑑賞していない方はこの批評を観ないで、是非鑑賞してほしい。


世界から見ればほんの一部の特権のくせして、今や西側、ヨーロッパの都会に行けばどこにでもいるいたって普通の、資本主義に複製されたインスタの餌になった若者。人種問題、環境問題など表面は謳うハッシュタグ現象そのものが、ついには豪華客船に乗ってしまう。

前半は、ファッション舞台(インスタを含む)で活躍、「生き甲斐」を得てしまったカップルが、文字通り「ラグジュアス」な編集とリズムによって豪華客船へと乗り込んでいく訳だが、後半には、他資本家たちを乗せる船が海賊に乗っ取られ、島に流れ着いた、(悲)現実で通じる価値を失ったブルジョワは、身体に職をつけた、地に足をつけた、西で言ういわゆるマージャナライズドされた女性に立ち向かうことができない。
階級論争、イデオロギー、レイシズム、フェミニズム、食概念、そして障害者性が隙間なく語られるが、地球に平等に生まれるべきだった人類にとって、観念は観念でしかなく、島では権威的な社会主義社会に進む。
観念的にリベラルが分断される描き方にとにかく、隙がない。


前半の前には、序章という形でどのように我々がシステムへ組み込まれて行くかということが描かれている。
H&Mからバレンシアガと、まるでカメレオンのように変換可能な身体を操る産業にいる青年の「#フェミニズム」のレストランやホテルでのやり取り、皮肉った描き方も面白いが、人間をカタログ化させ、表層的に見るブッカーが、アメリカ旗柄のTシャツを着ていたり、ウーバードライバーが、欲しいものは(愛は)勝ち取っていくものだ、でなければ奴隷化される、なんていうサタイア、やり取りは笑える。


前半はさて、そこからディズニーランド化した上層部豪華客船という舞台装置に入る。掃除マネージャーをする女性の登場、そして後に悲惨な状況下へと追い込まれる滑稽な登場人物たちのレストランでの大胆で胸糞悪いイントロダクションが物凄くスムーズなリズムで良い。この辺で、観客は辺りに飛び回る蝿を認めざるを得ない。
豪華客船で働く労働者は、上層部では白人がホスト、ホステスをこなし、下層部では労働力として普段西側が「移民」と呼ぶ人たちが掃除や雑用、エンジニア、料理を勤めている。コロナ禍でも浮き彫りになったソーシャルワーク、エッセンシャルワークという労働力を担っているのはこのグループであるが、もちろん映画の中でもまた、彼、彼女たちには労働に見合った報酬は得られない。これは、資本主義批判の最もわかりやすいメタファだと思われる。
いわゆる「マスター」の動機とナラティブで働く「奴隷」が、ただの人種的な観点でなく、もっと大きな視野のメタファーとして描かれているのは、クレジットにノーム・チョムスキーの名前が流れるためであるが、そのレファレンスは後にも通じる。
大自然の海の上、ディズニーランドのアーキテクチャそのものが海に浮かぶ訳だからインスタヒッピーもブルジョワも、もちろんそれを支える労働者も同じ場所でいるわけである。これは海の上という状況上、実際のディズニーランドというメタファーよりも鋭い。つまり、日本そのものなのである😂。その理由から、その隠喩の内での「マスター」はより恩恵をうけ、「奴隷」たちもまたより負担を課される。
労働者はほとんどマニュアル化されているが、それに背いたり、前者の意思にそぐわないと労働者は捨てられる。命令は絶対、海上滑り台を滑り、一方ヌテラは、ヘリで届けられる。
船での終わり方は、言うまでもない。地球にもエネルギーの限界があるように、労働者のエネルギーにも限界がくる。
加えて、資本家によって汚された空間は労働者によってきれいに掃除され一旦は元通りのように見えるのだが、翌日には海賊に襲われる。この登場は現実に置けるアナキズムや革命家という立ち位置を意味しているのかもしれないが、今のところの読みでは定かではない。資本家は気持ちよくいなくなって、あっぱれ、ハッピーエンディング。でないのがこの映画の本質である。


後半、島に漂流した一部の元乗客に更に細かく役割が与えられる。ペラペラな現実から非現実世界へと着た彼、彼女たちの現実、非現実の不透明性の見せ方も面白い。
例えば資本家のダイヤモンドはそんな島の上では意味をなくはずだが、観念的な価値にすがる、または世の中の特権階級の象徴であるインスタヒッピーもまた香水を価値にこだわる一方、ブレッツェルスティックと引き換えに、技能と権力のあるリーダーと価値の交換、性交渉が行われる。
エンジニアはその手先でロシア人の髭を剃り、ぎこちないアプリ創設者はロバを殺して宴会を催す、元彼女は後に一人で丘を登っていく、若い特権階級の彼には、これしかないのである!笑
ロシア人オルガーキーもまた、金のみで得た責任、そして妻を失うシーンを見せるのもそのためであろう。
元々、表面的な元カップルのやり合い等は、価値が一変されることによって、別の表面的現象に置き換わったわけである。
さて、それよりも重要なのは、現実でも非現実でも声も発せられず、身動きもとれない身体的障がいを持った*マイノリティの女性である。映画の根本はここに隠されていると思う。
余談だが、*マイノリティというのは、いつも言葉にならない、声を出せない人々のことである。僕たちはこのことを映画からきちんと学ばなければならない。島の上で唯一用意された彼女が話を交わす相手も、また人種的な差別を受ける*マイノリティであるのであった。
権威社会主義に置き換わった島での生活は、紙幣や物の価値よりもっと本質的な価値が重要視され、木は皿へと変化し、救出ボートはリーダーのラブホテルへと成り上がった。
島に慣れきった頃、価値の変化も人々の中に住み着いていき、非日常は日常となり、非現実は現実になる。

動けない女性は島の上でもまた、排除の対象となった。彼女についてもっと言えば、映画中、敢えて敷き詰められた笑えるシーンの中で、彼女が話すときに限っては、観客が笑っていいのか迷う、というのも映画館ならではの仕掛けであると思う。序章で見せられた主人公の女性のランウェイで見せられた、#みんな平等といった薄汚いネオリベのプロパガンダがどれほど薄っぺらいかわかるだろう。または、それをハッシュタグでだけ指示している大衆の無関心、思考停止が笑い声の強弱によく現れる。
『蝿の王』を思わせる島のシーンは、観客に残酷なエンディングを用意している。
信頼を得た物分りのある移民を演じた権威とインスタモデルのやり取りの構造的パラドクスは、言葉にするまでもない。


この映画で示された現象そのものの範囲が、実はブルジョワ階級だけでなく、労働者階級にまで進行してしまっていることは、忘れてはいけない。
オプティミストもニヒリストも、この映画を真正面から受け止める必要がある。
この映画がカンヌで上映され、パルム・ドールを取ってしまったことのダブルスタンダード、ダブルメタファー。
僕たちが自発的に実践することで得られる民主主義や正義というものを、この映画で描かれた資本家やルールを決める権力を持った人間、大資本が関わる映画祭にいる人間たちに委ねてはならない。

この映画もまた数年で大衆の会話から消える。環境問題は深刻化し、戦争がアメリカ帝国主義の仕組んだ通りに西側の日常となり、極右の力が増し、プロパガンダによってリベラルの自発性が消える、力に消されたマイノリティは、よりその負担を負わざるを得ない。これらは、どこか一つに動機やナラティブがあるのではなく、明らかにもっと大きなナラティブでの社会現象である。

世の中には、いい人間も悪い人間もいない、あるのはそれぞれの身体と観点だけ。民主主義概念はギリシャで始まったかもしれないが、民主主義はそこで始まったのではない。もっと昔からいつも、人々の間に存在していた。
人々の中で対話すること、相互補助しあっていくことを、現実で実践したい。
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