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クライムズ・オブ・ザ・フューチャーのambiorixのレビュー・感想・評価

4.3
人類が痛みの感覚と感染症の恐怖を克服した近未来。体内に新たな臓器を作り出すことができる「加速進化症候群」の罹患者であるソールと元外科医のカプリースは、新臓器を遠隔操作のメスで摘出する手術の模様を観客に見せて金をとるアートパフォーマンスの分野でたいへんな人気を博していた。行き過ぎた人類の進化に危機感を覚える政府は「臓器登録所」なる部門を設立。ソールらの生み出す臓器を国の管理下に置こうとする。他方、人類を人工的に進化させようとする反政府的なレジスタンス組織も暗躍していた。彼らのリーダー格であるラングはある日、食べたプラスチックを消化できる特殊な器官を持った息子ブレッケンの遺体を解剖してみないか、という提案をソールとカプリースのふたりに持ちかけるのだが…。と、あらすじを書いているだけで頭がおかしくなりそうなぐらいにムチャクチャなお話ですが、実際にこの通りなんだから仕方ない(笑)。前作『マップ・トゥ・ザ・スターズ』から8年のブランクを経て作られた本作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』は巷でも喧伝されているとおり、監督のデヴィッド・クローネンバーグが1999年の『イグジステンズ』以来、23年ぶりに得意のSFホラージャンルへと回帰した作品です。俺は『マップ〜』の公開よりあとに映画を見始めたにわか映画ファンなので、クローネンバーグの作品を劇場で見るのは今回が初めてなのですが、そんな俺でさえかつての盟主の帰還ぷりには思わず滂沱の涙を流してしまいました。
まず驚かされるのが、これまた『イグジステンズ』以来の登場となる激キモ変てこガジェットの数々でしょう。ショーの中で手術台の役割を果たすサークは古代生物の化石で作った棺桶のようなフォルムだし、サークに取り付けられたメスを操るためのコントローラーは『イグジステンズ』の肉片ゲームポッドを想起させる非常にグロテスクなシロモノ。触手のようなぶっといヒモでもって天井に吊られたベッドも寝苦しそうなことこの上ない。そしてきわめつけは、人間の骨で組み上げた?ゲーミングチェアならぬブレックファスターチェア(ポスターでヴィゴ・モーテンセンの後ろにいるやつ)。これは多臓器障害や摂食障害をもった使用者が食べたものを嚥下・消化するのを助けるために作られた椅子なのだけれど、座った人間の動きとはお構いなしにグラングラン揺れるさまがすごくシュールで、このガジェットのビジュアルだけでもう満点をあげていいと思った(笑)。最近見た映画の中でもぶっちぎりで衝撃的だったかもしれない。本作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』を分類するなら、おそらくは難解なアート映画ということになってしまうのでしょうが、固定したカメラで被写体の営みを長々と追ったような、よくあるイキったタイプのアート映画とはまったくの別物。そういう意味で言えばこれは、視覚のみで楽しめる「真のアート映画」といってよく、ぶっ飛んだデザインのガジェットを見ているだけでもチケット代の元は十分に取れるのではないかと思います。
さらにこの映画は「アートの本質をとらえたアート映画」でもあります。劇中で何度も行われる臓器摘出ショーが象徴的ですが、自分の中から出てきたなんとも名状しがたい何物かに意味と価値を与えて他者に供する、というまさにそのプロセスこそがアート作品を創出する行為に他ならないからです。それをあろうことか臓器や手術に喩えてしまうあたりがクローネンバーグのすごいところ。思えば彼はこれまでの作品の中でも、精神と身体の変容がイコールで繋がったような心身一元論的で、それこそアートとしか呼びようのないシロモノをたくさん描いてきました。母親の怒りの感情が生んだ『ブルード 怒りのメタファー』の怪物、『裸のランチ』のヤク中主人公が認識する悪夢的な世界、念じるだけで相手の頭を吹っ飛ばせる『スキャナーズ』やなんかもそこに入れていいかもしれません。一方で、劇中にはソールとカプリース以外のアーティストも登場します。目と口を糸で縫って塞ぎ、その代わりに大量の耳を体中に貼っ付けながら謎のダンスを踊る男がそうです。しかしソールは彼を見て一蹴します。こんなもんは紛い物でしかないと。たしかにこの男のやっていることはソールとは真逆で、内から湧き出ようとするイマジネーションを自らの手で覆い隠し、体表という名の表層に留まって満足してしまっているようにも見えます。ようするに、自分の内面と真摯に向き合ってえぐり出したもので勝負していないわけです。見せかけだけそれっぽく取り繕うのだけれど薄皮一枚剥いでみればスッカラカンで中身がいっさい伴っておらないペテン野郎のわれわれにとっては耳が痛いくだりです。
ブレッケンくんの解体ショーで一悶着あった後、ブレックファスターチェアに座ったソールがプラスチックバーを口にし、安らかな表情を浮かべたところで映画は突然打ち切られたかのように終わります。このラストシーンは解釈が分かれるところでしょう。直前までにソールの身体が衰弱しまくっていたことを考えると、臓器を自分たちの支配下に置こうとする国家権力サイドと人類の進化をドラスティックに進めようとするレジスタンスとの間で板挟みになった結果答えを出しきれずに自死を選んだ、みたいな読みをするのが妥当なのかもしれません。けれども、そんなオチの映画が果たして面白いのか。なにより「人類の進化」というテーマに取り憑かれてきたクローネンバーグが今の時代にわざわざそんなペシミスティックでつまらない終わり方を選択するだろうか。終盤でソールの体内に生まれたのはプラスチックを消化することのできる例の器官で、最後に流したあの涙も自身の身体の変容でもって人類の進化の兆しを悟ったからなのだ…とした方が幾分かしっくりくるように思います。そこで予期されているのは、べらぼうな気候変動によって作物が育たなくなってしまい、人類がプラスチックを食って生き延びるしかなくなった未来の世界。やがてわれわれ観客の住む現実にも訪れるであろう(なにせ俺たちは近い将来コオロギを食わされるはめになるのだ)この環境における「無機物を消化できる器官の発生・発達」という事象は紛れもないダーウィン的適応の結果であり進化でもあるといってよいでしょう。こうなると、人類がどれだけ身体をいじくり回そうとも、テクノロジーに侵されようとも、プラスチックを食おうとも、人間を人間たらしめている核の部分は微動だにしないのだ、みたいな楽観すら感じてしまいます。それこそ「あの子は人間じゃあない」かなんか言って我が子を衝動的に殺してしまったブレッケンの母親とは真逆のスタンスです。のちのインターネット社会を言い当てた『ビデオドローム』や『裸のランチ』などなど、しばしば予言的な映画を撮るクローネンバーグだからこそ、この未来社会の描写にはどこかリアリティがあります。
しかしながら元はといえば、本作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』は「痛覚の克服」をも人類の進化のひとつとして描いてきたはずでした。ところが、身体の痛みを感じなくなった人間たちがみな幸せそうかといえば微塵もそういう風には見えません。それどころかデヴィッド・フィンチャーの『ゲーム』よろしく、痛みを失ったことでかえって自分が生きている実感を得られなくなったようにすら映る。一番の問題はセックスです。性的な快楽は痛みの感覚と等号で結ばれていたのか、痛覚がシャットダウンされた人々はオールドタイプのセックスをほとんど放棄してしまいます。その証拠にこの映画には子供がほとんど出てこない(俺の記憶が定かならブレッケンくんしかいない)。けれども、人類がセックスをよしてしまったことがすなわち悪なのかというと微妙なところです。なぜなら、彼らはおっ勃てたチンポコをマンポコに突っ込んでこすり合わせたり、夫婦生活の成果物として子供を作ったりするのとはまた違ったやり方でもって性愛の形を模索しているようにもとれるからです。今のところそれはソールたちのように相手の身体に刃物を突っ込んで傷をつける、という自傷行為の域を出ないのですが(これなんかは『クラッシュ』っぽい)、いずれまた別の答えにたどり着くだろうし、個人的にはこの模索のプロセス自体が現代的かつクィアな感性に基づいていてすごく好きです。ただ、最終盤に痛覚を取り戻したソールがオールドスクールな性愛に回帰していくシーンというのが一瞬だけあって、するてえとやっぱり痛覚の喪失は退化なのか?ことによると自傷行為は身体に痛覚を取り戻すための悪あがきなのか?とも思えてきて、うーん、よくわからなくなってきた…。
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