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聖地には蜘蛛が巣を張るのスペクターのレビュー・感想・評価

聖地には蜘蛛が巣を張る(2022年製作の映画)
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ミソジニーが社会に組み込まれていることの恐ろしさが充分に伝わる。下馬評通り終始緊張感が張りつめた映画。ペルシャ絨毯に女性の顔のポスターも印象的。

蜘蛛とは、自宅へおび寄せて殺すやり方とヘジャブを死体に巻きつけて捨てるのがまるで糸でぐるぐる巻きにしてから捕食した獲物を捨てる蜘蛛のようだから。
あと街を上から見渡すと蜘蛛が巣を張ってるように見えるとか、廃れた場所に住み着く虫の象徴。様々な意味がある。

そもそも娼婦は汚らわしい罪な存在とされながら、なぜ徹底的に取り締まられないのかといえば、もちろん男達が娼婦を必要としているから。警察も多分利用していて、時と場合によって見逃されたり、黙認されていると思われる。表では蔑視しているのに。娼婦は裁かれるけど、男性優位だから利用している男が同様に裁かれることは無いこの不公平さ。
そこに気づき批判する女性がいても、男性優位社会だとその声が届きにくい。
ただこうした本音と建前がキレイに分かれた社会というのはイスラム圏に限ったことではない。

犯人の動機は中年の危機から来ているという描かれ方で、実際もそうだったのだろう。自分の人生に何か大きな足跡を残したかった。それで選んだのが聖地を浄化するという名目で娼婦を殺すことだった。娼婦が聖廟の周りをうろついていることを忌々しく思っていたし、そういう人が多いことを分かっていた。殺しても警察は世間の空気を察して真面目に捜査などしない。むしろ宗教的に立派だと称える人もいるハズ。そういった打算の上で行っていたことは明らか。
しかもその通りになっている異常性をヒロインは身をもって体感する。
サイードは家庭を持つ凡庸な人間だったのに、殺人を重ねるごとに狂気が増していく。それは彼だけの問題ではないとみるべきで、世界の各地でも起こりうる。

サイードが捕まっても安心できなかったのは下手したらイスラム法(シャリーア)的理由から彼を無罪にするか軽い刑罰で済ませる可能性があったから。日本や欧米では絶対有り得ないけど、イランとかではあり得る。そのあり得るってのがヤバい訳で。
サイードもたかをくくっていたけど、裁判官達が下した判決も正義の為というより本音と建前のどっちを取るかという結果、建前だったのだろう。
「気持ちは分かるし、本当は許してやりたいんだけど、そしたら似たような事件が後から多発しても困るから、我々の立場がなくなるから」みたいな。


犯行を擁護する人達に対して言いたいのは、彼が関係ない人、娼婦じゃない人を暴走して殺さない保証なんてどこにもなかったということ。
現に娼婦のふりをして近づいたヒロインを殺そうとした。娼婦の存在が罪であってもそれは司法の手に委ねるべきであって、個人の私刑に任せるのは間違っている。
もし擁護する人達の娘が何らかの理由で娼婦になって、それが理由で殺されても文句はないのかと聞かれたら?
何より遺族に向かって、犯人は正義を行ったとか殺されて当然だったなんて言えるのかと。
つまりサイードの論理や擁護する人達の意見は簡単に破綻するんだよ。

なりたくてなる娼婦なんていない。大抵の場合、夫から一方的に捨てられたか、経済的援助を絶たれた弱者だ。

家族もサイードが自分たちのことよりも、娼婦の殺人を優先したという事実に向き合うべきなんだが、奥さんの場合、夫が人殺しだという事実から目を背けたがってるようにも見える。またはイスラム社会の歪んだ価値観に洗脳されているのか。または両方か。

ラストも問題の根深さとこれから先も続くんだと思い知らされる意味で、負の余韻がたなびく。
不当に殺された娼婦たちを弔う一番の方法は忘れないことであり、二度とこんなことを許さない社会を目指すこと。
残念ながら、去年女子大生が死亡したことがきっかけで抗議運動が起きたからタイムリーなテーマではある。


評価の低い人もいるけど、内容的にイランでの撮影許可が下りるわけない為、人口が2番目に多いシーア派イスラム教の聖地マシュハドをヨルダンで再現したこと、しかもコロナ禍の中。
ヒロイン役のザーラ・アミール・エブラヒミも過去に重なる役を体当たりで演じたこと。
監督のアリ・アッバシも故郷イランには帰れなくなることを覚悟の上で、この映画を撮った。少なくともイラン在住の監督達には取り上げづらいテーマを扱ったことを考えれば、称賛に値すると思う。
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