2日間で3回鑑賞。初回は高熱と微熱を行き来しながらほぼウトウト。2回目は微熱のなかで何回も何回も何回も、数え切れないほど戻しながら鑑賞。戻してもどこまで観ていてどこから観ていないのかわからない。どの場面もすでに出会っているような、どの場面も未だ出会っていないような。わけがわからなくなってくる。3回目は微熱と平熱を行き来しながら、気づくとウトウトしてるときもあったけどおおかた観たのではないかと思う。でも、お前は何を見たのかと問われたら返答に困ってしまう。結局なにも答えられない。
なんにもわかってないけど、でも、わかったことがある。映画を観る理由はきっとたくさんあって、監督が何から何まで完全にコントロールして計算し尽くして完璧な映画を制作したとしたらそれはそれですごいことだし、そういう映画もわたしは好きかもしれない。でも、やっぱりわたしはリンチのこういう映画が観たい。全てを言語に置きかえることができるならばなにも映画にする必要なんてない。監督自身も言語化できない部分があって、理屈じゃとても明快に説明することなどできなくて、だから映画をつくるんであって、言語化できないところにある映画が監督から差し出されるとアタシはめっちゃうれしくなる。(しかもものすごく誠実につくっているでしょ?)だから言語化できない感情をそのまま受け取りたいと思うんだ。それって信頼されてるってことだと思うし。あと監督はきっとフェミニストよね。娼婦にも老婆にも醜女にも、美女と同じように接する人のような気がしている、それは当人にとってはきわめて当たり前のこととして。どうか私の思い込みではありませんように。
ローラ・ダーンの冒頭のセレブっぽい姿もステキだけど、混乱してきてわけがわかんなくなってきて迷子のようになってきてお化粧がどんどん剥がれてきて素になってくる姿もとても美しい。愛おしいとさえ思う。最後はもう皆を祝福してくれているのかな。この祝祭感への到達は、なにものにもかえることができない。
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・ツイン・ピークスでのローラママが今作にも登場、冒頭で予言のような言葉を口にする。考えたら、ローラ・ダーンが劇中で絡む男性の髪型(ひたいがM字型)は、ツイン・ピークスでのローラパパの髪型を想起させる。真紅のカーテンも少し登場
・ナスターシャ・キンスキーがエンドロールで2度チラって映るのわかりました! (追記:2度じゃなくて4回)
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この映画については、少しだけ学んでから観ています(学んだのちにも私は結局なにもわからないのですが)。「夢は人が願望充足のためにみるもの」と説いたフロイトは、のちに(20年後の)自身の書でそのテーゼを撤回したそうです。科学的には正しくないとされているのに、映画では今も「夢は現実では満たされない欲望を満たしてくれるもの」として扱われるのは、そうであってほしいという願望がわたしたちにあるからであろう、とのこと。
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〈追記〉
2023年7月下旬にもう一度鑑賞
次にみたとき自信を持って満点をつけられたらと思う