カラン

帰れない山のカランのレビュー・感想・評価

帰れない山(2022年製作の映画)
3.5
イタリアのトリノの北側にはスイスがあり、イタリアとスイスの国境にはアルプス山脈が広がり、マッターホルンの山頂には国境線が走っているらしい。そんなイタリア北部の牧歌的な山間の集落に、トリノの家族が夏の休暇でやって来る。山の少年が少年らしい遊びができるのは、仕事の合間。都会の少年の両親は進歩的なリベラリストのようで、山の少年をトリノの家で引き取って高校に通わせたいと言いだすと、、、


本作は悪くないが、問題はある。

①脚本

本作の原題は”Le otto montagne”で、八つの山、である。詳細は知らないが、原作があるのだろう。非常に緩慢なペースは今どき好感が持てる。しかしこのペースの展開ならば、前編と後編に分けて、現状の映画を2倍の尺にする必要がある。しかし、それでは映画が売れないというのならば、都会の少年が主に父との関係のなかで「帰れない山」を見出す幼年期だけで描くのか、主にブルーノという山の男との関係のなかで「帰れない山」を見出す成人期だけで描くのかである。あるいは、ブルーノは都会の少年の父と懇意にしていたのだから、ブルーノと父、でも良いだろう。

いずれにしても、現状は描き込みが薄い。緩慢なペースで「八つの山」という出来損ないのスピリチュアリズムを描こうとするのは間違いである。スピリチュアリズムがいけないのではない。それが大切ならばやればいい。しかし、謎をかけただけにして、人生の奥深いものを感じてほしいという発想は、要するにオカルトである。ジャンプカットを2回して、少年はうらびれた成年になる。そこはうまくやっていただけに、オカルト趣味でなければ受け入れられない展開は残念であるし、おそらくは、原作に忠実に、という体の良い言い訳をしながら、自らが描くべきものを見失うという失敗であろう。

②撮影

映画を見始めてしばらく、嫁が「美しいな〜」と呟くので、アナログのフィルム撮影だと思うか、デジタル撮影だと思うか、聞いてみた。数秒、間をおいて、フィルムじゃないかと。デジタル撮影である、と応えた。ソフトフォーカスで背景を滲ませている。典型的なのだが、デジタル撮影ではモチーフに焦点を当てて、背景を緩くすると、モチーフが浮かび上がり、図と地という古典的な心理学的認知モデルができる。それが今のところデジタル撮影が成功する唯一の方途なのか、どれもだいたい同じである。しくじっているのはポール・バーホーベンの『ベネデッタ』(2021)くらいのものではないか。内容を妄想するだけで、一生懸命に作った画面に注意する人が少ないのは、哀しい逆説である。

本作はアルプスやヒマラヤの山間が舞台なので、ソフトフォーカスという典型的なデジタル撮影が生き生きしている。デジタルのやり方が描こうとする映画空間と合致している。だからデジタル臭はいっそう遠のく。しかし、本作の緩慢なペースで、山間の光景を、典型的なデジタル撮影であるが故に、ぼかす、というネガティブな態度で撮影を続けるのはデジタル好きという謎の趣向でもなければ、評価しにくい。山のなかの深く静かな闇で焚き火をすると、火の粉のいっぺんいっぺんが顔に巻きついて消えていく。美しい。丘陵を巨大なクレーンを使ったのか、横から追尾するショットも、美しい。良いところはたくさんある。なおさら、残念だ。

③ワンパターン

鳥葬の話で妻が気色悪そうにする。その夫が鳥についばまれて、雪の中から消滅する。こういう予告と展開という形式でのモチーフの反復は、下手をすると、伏線を張ったんだ、という感じ方しかできない。




成年になると、ジェイク・ギレンホールを思わせる顔立ちになり、山の中で男2人になる。しばらくすると山の男は妻と離別する。『ブロークバック・マウンテン』(2005)にしか思えないが、山男のヒース・レジャーではなく、ジェイク・ギレンホールが生きながらえる。ただし、本作は映画監督と脚本家まで茫洋と自己喪失してしまい、劇中で喪失の中を生きる主人公に同期してしまう。二重に甘ったれた感傷に耽って終わるラストシーンには、語るべきことは何も無い。


レンタルDVD。
カラン

カラン