JFQ

#マンホールのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

#マンホール(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

ある夜、結婚をひかえたエリートサラリーマンが突如、マンホールに落ちる。どこで落ちたかも不明瞭なため、警察も会社の仲間も助けに来ない中、男はSNS民たちの「考察」を頼りに脱出を試みる…。

「バラエティ番組」とかでもありそうな設定だし、脱出を試みるうち男の過去が明らかになっていく所も「ミステリー小説」っぽい。

しかも「穴」というモチーフを選べば、だいたい「深み」が作れる。自分のような「解釈したがり」が、それらしい事を言ってくれる。
「この”穴”はいわば”社会に空いた穴”であり、同時に”現代人の心に空いた穴”でもある」とか解釈してくれるわけから(笑)

「設定マニア」というか「コンセプトマニア」なところがあるので、そうした設定に惹かれ映画館に足を運んでみた。

感想を言えば、今の人々の無意識というか、気分をうまくすくいとった映画だなと。我々が今の社会に「ぼんやりと持っているイメージ」を可視化できていると思う。

具体的に言えば、まず、今の我々は国というものにほとんど期待していない。彼らは、我々が「助けてください」と言っても「ええ~担当部署におつなぎしますが、まず、お名前と、職業を…」みたいなことを延々言ったあげく「すいません、それでは出動できないことになっておりまして…」と言い出して、結局何もしてくれないと(涙)。
けれど、逆にウチらが「悪さ」をすれば、その時は秒でやってくる、と(泣笑)。そういう存在に税金を払っていると。そんな感覚がある。

また、今、自分が窮地に陥った時に頼りになるのは「金」か、「家族」もしくは「ネットの人」だろうと。
「地域の人」が助けてくれるなんてまずないし、「会社の人」だって仕事上のパートナーであって、それ以上の何かをしてくれるとも思えない。

だとしたら、貴重なのは「GOLD(金)」か「GOOD(承認)」だろうと。

けれど「GOLD」や「GOOD」を得られるかは「ガチャ」によると。それらは見た目には「数値」で表せるので「フェア」な感じがする一方、それを得るための「初期設定」については「ガチャ」という感覚がある。
最初から「武器だらけの人」と「まるごしの人」がいて、この差は「がんばり」やらなんやらで埋めれられる限度を超えていると。

そのため、①「GOLD」も「GOOD」もある人。②「GOLD」あるが「GOOD」がない人。③「GOLD」はないが「GOOD」がある人。④「GOLD」も「GOOD」もない人がいて、④になると正直「無理ゲー」だと。
そこからどうにかしようと思えば、この映画のように「自分であること」を捨てて、③に「なりすまし」、②の人にすり寄って、①にのし上がるしかないと。
もしくは、フィリピンから「海賊王」の名を名乗って「ギャングーズ」にでもなるかしかないと。あるいは「無敵の人」になって①②③④に人を分類する「この社会全体」を破壊しにかかるか…と?

その意味では、これは「マンホールに落ちた人の話」ではなく「マンホールの底で生まれた人の話」だと観るべきなんだろう。

この映画はそんな認識で描かれている。だから映画を観た人は、この社会が「本当にそうなっている」かは別にして「なんとなくそんな感じがする」という感覚を抱くと思う。

けれど、その一方で重要なのは「なんとなくそんな感じがする」を生み出しているのは何なんだろう?ということで。

というのも、実際のところを言えば、今、世界は「GOLD」も「GOOD」も「供給量」としては溢れに溢れている。

だって、これまで世界は「異次元」かどうかは別として「金融緩和デフォルト」で進んできたわけだから。また、今や世界はネットでつながり、「いいね!」も「押し放題(押したからといって何かが減るわけでもない)」なわけだから。

だったら、「GOLD」も「GOOD」も「足りない」なんてことはないはずで。

ならば、素朴に考えれば「GOLD」だって一生かかっても使い切れない量を持ってる人がわんさかいるのだから、その「一部」を配ったっていいじゃないか?「GOOD」だってどんどん押していけばいいじゃないか?そうすれば「足りない」なんてことになるはずがない。

けれど、現実は、そうはなっていない。

なぜかといえば「そんなことをしたらみんな楽をしてしまう」と。「共産主義のように努力をしない甘えた輩が湧いて出る」と。
映画で言えば「精神が腐敗」し、(生物の)腐敗が生み出す「泡」に心が飲み込まれてしまうのだ、と。

つまり、「恐怖の観念(そんなことをしたらみんなの精神が腐敗してしまう)」が「それ(なんとなくそんな感じがする)」を生んでいる。「GOLD」も「GOOD」も「供給量」としては溢れに溢れているにもかかわらず、「配ってはいけない」し「行きわたらせてはいけない」を生んでいると。

そして、もう1つある。
それは、この世には「GOLD」や「GOOD」を「なりふりかまわず渇望する人間がいる」、という「観念」だ。
そういう人間は、渇望しているのに「GOLD」も「GOOD」も手に入らない。だから、あなた達が持っている「GOLD」や「GOOD」をなりふりかまわず「奪いに来る」のだと。

この「恐怖の観念」があるからこそ、現実には供給過多にもかかわらず、我々は「自分が持っているGOLDやGOODは”貴重”なものなんだ」という感覚を維持することができる。

つまりは、先の図式でいえば④のような人間がいるのだという「恐怖の観念」が「それ(なんとなくそんな感じがする)」を生んでいると。
「GOLD」も「GOOD」も「供給量」としては溢れに溢れているにもかかわらず、「それらは貴重なのだ」を生んでいると。

ただ。そこまでなりふりかまわず渇望する人間は本当にいるのか?実際、映画では「その人」の「顔」は映っていないのであって。
いや、いるのかもしれないが、彼らもまた本心から渇望しているというより「なりふりかまわずそれを求めないとダメなんだ」と思い込まされてしまっているんじゃないかと。

けれど、それらは「つきつめて」しまってはいけない。いわば「フタ」をせねばらない。でなければ「GOLD」も「GOOD」も現実には「溢れている」にもかかわらず、それは「希少」であり「公平な競争」を通じて「厳正に配分」せねばならないという観念を維持できないわけだから。

だから、この映画は「マンホール(フタのある穴)」を舞台にせねばなならないのであり、「ホラー(恐怖の観念)」でなくてはならないのだ、と。そんな事を思った。
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