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プアン/友だちと呼ばせてのGakuのレビュー・感想・評価

プアン/友だちと呼ばせて(2021年製作の映画)
3.8
 ナタウット・”バズ”・プーンピリヤ監督の長編映画の三作目である。第二作目の長編監督作品はあの『バッド・ジーニアス』(タイ、2017年)であり、彼のスタイリッシュな才能が遺憾なく発揮され、そしてそれが国際的に認められたものだった。そして今回はあの伝説的なウォン・カーウァイが製作総指揮の座について、プーンピリヤ監督の後押しをするのだから、これは観ねばというものである。そして観終える。良かった。
 物語はニューヨークから始まる。タイ出身で女たらしの、バーの若い店主であるボス Boss (タナポップ・リーラットタカチョーン)の暮らしぶりは派手で、はてさて生き馬の目を抜くような激しい競争社会のマンハッタンでバーをやっているには、あまりにのどかな商売のやり方をしている。主に若い女性客を対象にして、ふんだんに酒をおごり、そして居残った相手に手を出して、その日その日を過ごしているというありさま。「あんたの話は最高だけれど、あんたの酒は最低よね。」といわれるぐらいにバーテンダーとしても身に入っていないことが示される冒頭部分。そしていつものように店で客相手に楽しんでいる最中、携帯に電話が入る。それはかつてニューヨークで同居していた親友ウード Aood (アイス・ナッタラット)からのものだった。
 いまはバンコクに暮らしているウードは、ボスに自分がガンであること、そして余命が長くないことを伝える。そして友人として手伝ってほしいことがあり、ニューヨークからバンコクに来てもらうことを依頼する。
 ここまで、このボスとウードの二人の関係は特に語られていない。友人であるということだけ。一緒に住んでいたということから恋人同士かとも思われたがそれとも違うらしい。というのも、ウードのバケット・リスト(死ぬまでにしたいことのリスト)には、元カノに会って謝るということだからで、彼女(たち)に会うための同行と車の運転とをボスに頼み、ボスはそれを快く引き受けるからだ。少なくともボスとウードの間には性的なにおいはしない。だが、ボスがニューヨークのバーを(元からそれほど真面目にはやっていないにもかかわらず)一ヵ月休み、バンコクまで飛んでくるのは、単なる友達以上の何かを感じさせる。
 バンコクでのウードの暮らしは質素だ。貧相なビルの一室にラジオDJだった父親の遺品(多くのLPレコードなど)に囲まれて暮らしている。そしてボスにとって久しぶりに出会ったウードの身体はやせ細り、髪の毛も抜け落ちて、歩くのにも杖が必要な状況だ。父親もガンで亡くなり、自らも白血病であることを認めたウードはすでに自分の運命を受け入れている。携帯にあった連絡先の友人たちに電話で連絡を取り、自らの近い死を伝えることなく、これまでの感謝を伝えて、それを終えるごとに携帯上にある連絡先を消していく。最後に残っているのはボスと数人のみ。
 ボスはウードの変わりように驚くものの、彼の元カノに出会うという願いに付き合うことを(渋々ながらも)快諾する。そしてウードの父親の遺品の一つであるという古いタイプのBMW(BMW 2000C)に乗り込み、タイの地方都市へと向かう。そして古いタイプの車に備え付けのカセットテープ・プレイヤーに、DJだったウードの父親のラジオ番組の録音テープにある音楽(オールディーズ)を流していく。
 物語の性質上、この映画は良質なロード・ムービーともなっている。初めは一人と聞いていたウードの元カノが、実はあと二人ほど控えていて、最初のコラート、次のサムットソーンクラーム、その次にチェンマイなどタイの由緒ある地方都市を車で訪ねていくことになる。そしてウードの父親の墓参りを終えて、ボスの故郷のパッタヤへと向かう。ウードは元カノそれぞれに謝り、感謝を伝えて、そして彼女たちの名前を携帯から消していく。
 もちろん、彼女たちに会うのは容易ではない。会いたくないといわれる。あるいは不意を突いて会っても、すぐその場から出ていくことを伝えられる。もしくは居留守を使われ、ウードとの再会を拒否する。ボスもウードもそれなりに荒んだ生活をニューヨークでしてきた。人間との関係で、かつては愛を誓った仲で、それも訳あって別れたのだ。基本的に関係の終えた恋人とは縁を切るという傾向の強いアジア圏で、前の恋人に会うというのはハードルが高い事案なのであり、それに付き合うボスも親友とはいえ、かなり人がいい。
 印象的だったのは、サムットソーンクラームで再会した二人目の元カノ、ヌナー(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)とのエピソードである。女優志願だったヌナーは、ニューヨークに出るが、結局はその夢が破れてタイに舞い戻る(そしてウードとも別れる)。タイで映画主演を勝ち取るものの、そのダイコン芝居ぶりについて監督からはケチョンケチョンにいわれている状況。そこにボスの機転の助けもあり、控室に入ったヌナーになんとかウードが話しかけることができるのだが、ヌナーはウードにニューヨークでの「オーディション」を邪魔されたことをまだ根に持ち、怒りを抱いている。ニューヨーク時代、安っぽいカメラをもったイタリア系の男性が、ヌナーをホテルの一室のベッドの上に寝かせて、「オーディション」と称して安っぽいインタビューを試みたことがあった。ヌナーとしては必死にとったチャンスであろうに、それをウードは許さない。あろうことかヌナーに「誰もお前の才能なんか見ていない。一緒にベッドに入ることしか考えていないんだ」と怒鳴り、オーディションの男性を殴りにかかる。
 ヌナーはウードの謝罪と感謝を拒絶する。そしてその峻拒とした態度で、映画の撮影に臨み、怒りをもって銃を取り出し、映画上での結婚相手であるはずの男優に、愛情と憎しみをこめて銃弾をくらわすという難しい演技を見事にやってのける。
 撮影の中で銃弾が撃たれた際に、ウードは自らが撃たれたと思う。映画の中で、ウードの胸は銃弾で血を流す(もちろん実際に撃たれてなんかいない)。そして、そばでそれを見ていたボスも返り血を浴びる(もちろん実際に血なぞは浴びていない)。二人はその撮影を見届けたあと、車でその場を後にするのだが、その演技を監督や他のスタッフたちに絶賛されたヌナーが、撮影場を後にして泣き崩れる姿を、去り際に目にするのである。その時に、そのヌナーの激しい拒絶が、ウードへの激しい愛との裏表であったことを二人は知る。
 この映画のテーマ(の一つ)は別れであり、そして別れに伴う郷愁である。古いBMWも、備え付けられたカセットテープも、そこから流れるオールディーズも、タイの古い町並みもすべてそれを伝えるためにある。そしてその別れが必ずしもきれいごとでなく、身を切るような痛みをもってなされることをこのシーンは(映画という虚構を二重に借りて)示している。
 別れはきれいごとではない。そして死に近づくありさまも美しくばかり語ってはいられない。ウードの病状は重くなり、サムットソンクラームの後に寄った屋台のバーで、ウードは血を吐いて倒れる。だが、約束があるからとウードは、最初の元カノのアリス、先のエピソードの女優のヌナーとの再会の後、写真家であったルーンに会いにチェンマイへと向かう。
 余命短いガン患者との旅を共にするロードムービーといえば、最近だと『さようなら、コダクローム』(マーク・ラソ監督、米、2018年)があり、あれもなくなっていくものへの郷愁に囲まれた映画だった。古いフィルム写真(コダクローム)にこだわる写真家(エド・ハリス)とその息子(ジェイソン・サダイキス)の物語であり、父親は写真に残る一瞬にこだわるあまりに家庭を疎かにしたことを謝罪するように息子へと、彼なりの語り方(だいたい不快なのだが)で語ろうとする。そこでは息子と父親との葛藤が物語の中でとき解れていく様を聴衆はなんとか目にする。もしくは、過去を清算するという意味では『ドライヴ・マイ・カー』(濱口竜介監督、日、2021年)の方が感覚的に近いだろうか。運転手みさき(三浦透子)と物語の主人公である家福(西島秀俊)との間に、葛藤はない。ある種の契約じみた関係によって縛られ、長い道中を共にすることになる。だが、物語が移るにつれて、物語の主人公は実のところ車で運ばれているものではなく、その車を運転しているものであることが明らかになり、運転手とその同行者との間の関係性も問われていく。
 チェンマイを後にし、ウードの父親の墓を訪ねて、その遺灰を二人はチャオプラヤ川に流す。そしてボスの家族のいるパッタヤに到着したとき、ここでようやくボスの過去と、ボスとウードとの関係が明らかになっていく。そしてそれはウード側の負債の友情によってなりたっている関係であることが(ボスに対してようやくウードから)語られることになる。つまり、この話はウードだけの物語ではない。ボスの物語でもあるのだ。それがゆえに古きカセットは A面(ウード Aood の名前の頭文字でもある)から B 面(もちろんボス Boss の頭文字である)へとひっくり返る。
 原題の "One for the Road" は、長旅(帰宅)の前にバーで引っ掛ける一杯を指していっているものだが、バーの主人であるボスが作るカクテルにもちなんでいる。だが、タイ人のボスはなぜニューヨークなんかで、たいして熱もなくバーなぞ経営しているのか。いつウードとボスは出会ったのか。この腐れ縁めいた友情はどこから来るのか、それが B 面の後半ではそれまで秘められた女性の登場によって語られる。ニューヨーク・サワーという名前のカクテルとともに。
 はたして、ボスとウードはどこに行くことになるのか。ウードはすべての関係に「清算」をつけることができるのか。そして、ウードとボスの思いのいずれかは何かしらのかたちで成就することになるのか。それがこの映画での問いである。

 物語に必ずしも不満がないわけではない。例えば、ウードの性格付けとして、可愛い顔をしながらもわりに元カノたちには恨まれ、父親の葬式にも出ず、かつ「親友」であるボスには最初からひどい仕打ちをしている。だが映画内では死を前にしていろんなものが抜け落ち、無欲で愛される一方のキャラクターとしてのみ演じられているのはなんとなく腑に落ちない。もっと説得力のある性格の厚みをつけてもよかったのではとも思ったが、それはもう一人の主人公であるボスや、ヒロインであるプリム(ヴィオーレット・ウォーティア)もそうであろう。映画の道中で、そもそもなんでこの二人がそこまでして「親友」関係を続けていられるのか、その葛藤を描いてほしかったし、その意味でボスはウードに対して理不尽で身勝手な態度を示していても良かったとも思う。そしてボス側からのウードへの「負債」があるにせよ、それが語られなかったのはやや片手落ちな気がする。なぜなら、「プアン/友だち」という関係は、一方的な負債で成り立つものでなく、双方の負債(の感覚)によって成り立つものだからである。
 もしかしたら、これらの不足部分は監督のプーンピリヤがウォン・カーウァイ並みの巨匠ぶりを発揮して、完成まで数年かけるようになれば解消したかもしれない。だが、スタイリッシュな彼はスタイリッシュに短く物語を切り上げることを選んだ(それでもこの映画は129分と十分に長いのだが)。そして観衆の一人である私はこの物語に満足して映画館からの帰途に就いた。いずれくる自分の死と親しい者たちの死を前にした "One for the Road" を夢見るかたちで。良い映画である。私の中のロードムービーの良作の一つとなって、この先、何度か観返すものにもなるだろう。プーンピリヤとウォン・カーウァイのタッグを組んだ作品が再び出てくることを望むばかりである。
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