せいか

ミセス・ハリス、パリへ行くのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

10/01、AmazonPrimeにて視聴。字幕版。
原作はポール・ギャリコによるハリスおばさんシリーズの『ハリス夫人パリへ行く(Mrs. 'Arris Goes to Paris)』なのだが、シリーズを通して未読状態なので、原作と比べてどう違うかは不明。それもあって、衣装が楽しめそうだからそこだけでも楽しめたら儲けもんやなとぬるく構えていたけれど、どっこい、最初から最後まですごく楽しめた。現実の暗いところに主人公を立たせながらも、彼女自身の歩みによってその現実が優しい童話めいた柔らかさに包まれている。

本作の主人公はイギリスに住まい、複数の家で家政婦として働く初老手前程度?の女性で、暮らし向きも豊かではなく、生活はカツカツだ。それがある日、雇い主のディオールのオートクチュールに一目惚れし、何とか必要なだけの貯金をするとパリまで赴いて実際にドレスを縫ってもらうことになる。本作はその前後を含めて展開を描いたもので、彼女の前にはイギリスでもフランスでもあらゆる階層の人間たちが交差し、物語に文を成す。

オートクチュールの煌びやかな服飾の世界というものを中心に据えて、それを取り巻く金持ちたちの傲慢さや、その煌びやかな世界に居ながらも生活を感じながら歯を食いしばって生きている従業員やモデルたち、市井の人々といったものが作品を通して描かれている。
ミセス・ハリス自身もそうなのだけれど、雇い主たちからはいいように使われて人として敬われることもなく、けれど家政婦としては酷使し、しかも彼女から生活苦を訴えられても金払いはケチられるという扱いを受けていて、彼女も含めた人々を本作では「透明人間」というワードで括っている。そしてこの作品ではその透明人間たちの自らの存在を知らしめる叫びが、同時に進行されるパリの街中のストライキの光景と重ねて描かれるのである。それが直接サルトルの『存在と無』を持ち出すことで示されてもいる。

ただあるだけの存在として都合よく使われるために人間は存在するのではなく、互いに向き合って交流し、抑圧と自由への意思の相克によって消耗するのではなく、人を愛し、人生をより善く生きることを欲し、新たな道を拓いていく。一人ひとりのそこにいる人間の生を軽んじてはならないのだと、そういう力強さが本作にはある。
滞留に安寧を見出してなすがままにあるのではなくて、新しい風を吹き込みながら、この営みを愛していこうという、そういったものが現代的な主張をうまく取り入れつつ、爽やかな人間讃歌として表現されていた。人は人に容易に傷つけられもする。けれど、人は人に親切に振る舞うことだっていくらでもできるし、そっちのほうがハッピーなのだ。すごく好きな作品だった。
終盤、扱いが酷かった雇い主に対し、この関係をすっぱりと断ち切り、自分を軽んじる人に仕えることなどできないと言い切った彼女はすごく格好良かったし、本作を通して柔らかく優しく描かれてきた無視される人々の怒りを突きつけたのが本当、かなり沁みた。映画の世界を飛び出して、脳裏に過ぎる社会のあれこれに対する怒りそのものだなあとも思って観ていたので、時代背景は大きく違えど、まさに今ここのための作品として仕上げているなあというか。

世の中はクソである。でも、そのクソさの原因はどこにあるのか。人を同等の人と思わず軽んじているのは何なのか。私の中にもある怒りに寄り添ってくれるような作品だった。
せいか

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