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ミセス・ハリス、パリへ行くのmidoredのレビュー・感想・評価

2.7
家政婦が貯金してパリで超高級ドレスを買うお話。多国籍企業ならぬ多国籍製作映画です。ポール・ギャリコ原作のコメディとのことですが、どうも階級の寓話ではないかと思われます。

主人公のハリス夫人がディオールのマネージャーから、労働者が貯金をして高級ブランドのドレスを持ったところで何にもならないと言われる場面があります。昔から衣装は階級差を示すために機能してきたので、これは意地悪でもなんでもなく事実です。

労働者が貴族の服を一枚やそこら買ったところで、上流階級の文化・人脈・資産までは得られませんから、当然仲間には入れてもらえません。むしろそんな無意味な逸脱などせず、死ぬまで労働者として存在し続けるよう望まれます。

ところがこの映画では、労働者たるハリス夫人が金の力で旧世界的権威を蹴散らして、「ディオールのオートクチュール・ドレスをきた貴婦人になる」夢を実現することが奨励されています。これからはお金こそが権威かつ神様であり、すべての人が平等に個人の欲望を追求する自由をもっているので、こんな老いた哀れな家政婦でも望めばオートクチュールのドレスを心地よく楽しむ権利がある、なんて素晴らしい自由の時代なんだろう!シン・自由革命万歳🇫🇷!というわけです。

しかし、本当にそんなに良いものでしょうか。金権主義的な社会において富む者はますます富栄え、貧しき者はいよいよ困窮するのが紛れのない現実です。「神の元で人類はみな平等」は仏教徒でも理解できますが、「金の元で人類みな平等」では意味が通じません。それでは儲けられません。誰もやりたがらない単純労働を無数の誰かに低賃金で強制するからこそ儲けが出るのです。

この作品でも、ストライキがあろうと成金貴族が牢にぶちこまれようと、クリスチャン・ディオール氏のようなお金持ちや「本物の貴族」は新たな金集めシステムを構築してますます安泰である一方、駅にたむろする最貧困層は初めから終わりまで無一物かつ無力です。どこにも平等はありません。

つまり、この一見夢いっぱいな家政婦の寓話は、階級再生産を望む層の人たちが「個人の自由」「自己実現の奨励」「夢を追う自由」などの幻想でもって、お金のない層を大量にだまくらかして、安定した労働力をしぼりとるためのファンタジーであり、教義でもあるのでしょう。ストライキやデモを悪く描いていたのも分かります。

時代設定のせいかやたらとサルトルが強調されていましたが、ブルデューの方がよほどしっくり来る内容でした。わざとらしくセリフに「ディスタンクシオン」を入れておちょくるあたり、確信犯のような気もします。

ハリス夫人が惚れ込んだドレスの名前が「テンプテーション(誘惑)」なのも象徴的ですし、十字架を思わせる窓のある部屋でハリス夫人が貴族紳士に心底ガッカリするのも分かりやすい。緋色のドレスを着た女とギャンブラーが踊るラストに至ってはブラックが過ぎて笑いました。地獄の一丁目でしょうか。

パリやドレスに興味が湧かなくても、昨今おなじみの新自由主義広告ムービーとして見てみると色々と味わい深い作品です。
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