三好マサヒロ

千夜、一夜の三好マサヒロのネタバレレビュー・内容・結末

千夜、一夜(2022年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

今年はよく邦画を観る。そしてとてもおもしろい。邦画がこんなに面白いなんて知らなかった。それとも今年が当たり年なのだろうか。『さかなのこ』、『PLAN75』、そしてこの『千夜、一夜』。

冒頭、ダンカンが出てきていたからか、仕事の休憩時間にタバコを吸う友人田島令子の横で、海の方を観ながらポケットをつっこんで話している田中裕子が、ビートたけしに観えた。そして、途中、失踪から帰ってくる男が安藤政信なのがキッズリターンだった、と言うのは、ふざけすぎである。

田中裕子という人の主演した作品というのを恥ずかしながら初めて観たのである。テレビで見かけたことがあるというていどの認識だった。「中学の友達のお母さんに似ている人」という印象である。友達のお母さんの中でも人当たりのいい優しいおばちゃんである。そのおばちゃんが主演している。で、あのおばちゃんって、あの優しい顔の奥に、本心ではこんな悩みを抱えてたんやって、考えたこともなかった。

『PLAN75』では80歳の倍賞千恵子が、この『千夜、一夜』では67歳の田中裕子が主演である。そんな映画観たことない。いや、あった、たぶん、昔の、小津映画くらいである。で、それに似た印象のあるシーンは、葬式のシーンなのであるが、小津映画のあの家族がずらっと並ぶシーンと比較されて、主人公の田中裕子がただぽつんと独りなのは、『PLAN75』と同じく、時代を表わしている、というように思われた。

ひりひりとした孤独が、失踪した男への個人的執念、というのを越えて、時代的な怨念となっているような、と言うべきだろうか。果たしてそれを怨念と言って正確かはわからないが、ただの失恋とは違う。それは生き方へと昇華されているというのか。それは昇華というのか。復讐を誓った人間が、その最も憎いはずの者のために、生きてしまうという皮肉は、愛と呼ばれるものと、いったいどれほど距離があるものなのだろう。

アメリカ人が選ぶアメリカ映画トップ3に、必ずといって選ばれる『市民ケーン』という作品を、初めて観たときに、これはなんだ、と思ったが、ああこれがアメリカ人なのだと思った。このような映画が好きなのがアメリカ人の趣味なのだ、という意味ではない。アメリカ人の自分の嫌なところがつくづく描かれている、のだと思う。また、そのアメリカ映画トップ3に入るだろう『風と共に去りぬ』というのは、ケーンの女版なのだ、と思った。なんていう「クズ」な女だ、と思った。なんでこれが名画やねん。というのも名画というのはもっとハッピーで主人公はおしとやかで。全然ちがう。むっちゃクズ。でもなんでだろうか、このラストで泣いてしまうというのは。それは彼女が俺だからだ。俺のように救われないクズな女だからだ。

フェリーニの『道』のラストで、女を捨てた男ザンパノが、その女ジェルソミーナの顛末を知って、海で泣き崩れるシーンを、反転させたようなラストシーンには、圧倒された。つまり、女を捨てた男は、海の前で泣き崩れて嗚咽すれば、それで終わりなのであるが、男に捨てられた女は、海に入っても、そこで他の男と一緒に死のうと思っても、海から上がっても、泣き崩れることはできず、ただひたすらに、海沿いを歩いて行くことしかできない、ということだ。

映画の最初に歩いていた場所が、ごみの散乱していた砂浜の上であり、そこで綺麗なエメラルドグリーンの石を探していたのが、ラストは海岸近くを、もうごみは寄せて、または海に還して、ただそこに、足跡さえものこらない、不思議にきれいな、地ともいえず、海ともいえない、間の「道」を歩いていくことになった、という変化があった。ごみは消えたか、と私は思ったが、左画面の砂浜にはごみは残ったままだった。ただ歩く場所が変わったのだ。

『PLAN75』は安楽死をあつかっていてなかなか難しいと思うのだが、味方によると、この映画の設定はコントの設定のような感もあるので、「笑い」を沢山込めることもできるのでは?と思ってみたりした。最後の倍賞千恵子が医療器具の不具合で生き残っちゃうのって案外笑えると思うし、他にもいっぱい笑える。特に、75歳以上安楽死の勧めの中でも、日本のおばちゃん特有の「もちまえの明るさ」というのがあって、それをもうちょっと前面に出してもよかったのでは、と思ったところもある。倍賞千恵子が特別に素敵すぎるので、他の友人にスポットを当てたら、笑える要素が多いはずだ。

この『千夜、一夜』には笑いの要素があって、この文章の冒頭で田中裕子が「ビートたけし」に観えた、というのもあながち口から出まかせでもない。確かに、この映画においても、田中裕子は常に顔がこわばっている。特にダンカンと話すときは、左右の顔が分裂していて、左の顔が麻痺しているようにさえみえた。ところが、友人の田島令子の横では、とてもリラックスしていて、笑えるのである。父親の義足を母親の棺に入れられず、困ってベンチで座っている。そのよこでた。田島令子がたばこを吸っている。「その足どうすんの?」。笑えていいシーンだ。もっとも、この足は、父親の戦争で受けた「トラウマ」を表し、彼のトラウマによって、幼少期に暴力を受けた彼女自身の「トラウマ」をも表している。その傷がいまも癒えない、という表現に、一応なっているのであるが、実はなっていない。その足は常に「逆さま」なのである。つまり、彼女は「仕返し」をしたいのだ。そして、それは、滑稽だ。そのことも彼女はたぶんよくわかっている。「私、狂ってるのよ」、と安藤政信を、失踪した自分の夫に見立てて復讐している自分を自覚して、そう言う。

自覚して、それで、変わることはない、ただそういうことである。とはいえ、なんだろう、あの彼女の強い意志というものは。海を眺める彼女のまなざしというものは。もう「持つ」ことの無いものを、「待つ」ということのなかで。
三好マサヒロ

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