HeYaH

手のHeYaHのレビュー・感想・評価

(2022年製作の映画)
3.4
抜粋
映画のタイトルが『手』である以上、「手」が重要な意味を持っていることは明白。
ではこの作品における「手」とは何を象徴しているのだろう?

まず気付かされるのは、薬指にはまった指輪💍
さわ子が関係を持つ男性は、みんな薬指に指輪がはまっている。
つまり男性の「手」は既婚者の証である訳だ。
唯一森は例外だが、物語の終盤で彼には婚約者がいることが判明する。彼の「手」にはこの後指輪がはめられるのである。

次に気づくのは、性的な関係で用いられる「手」。
口説こうとしてそっと手を重ねたり、乳を揉んだり、性器を愛撫したりする「手」。
他人と会話することが苦手であると述べるさわ子にとって、「手」によるノンバーバルなやりとりこそが、他者と繋がりあえる最大のコミュニケーション・ツール。そしてそれは、さわ子にとって異性とのコミュニケーション=性的な関係を持つということを表している。
さわ子は父親との関係が上手くいっていない。これは偏に、父親とは性的な関係を持つ事が出来ないからなんだろう。
ちなみに、これだけセックス描写のある映画でありながらオーラル・セックスの場面が一つもないのは、さわ子が「口」によるコミュニケーションを不得手にしていることを表象しているのだと思われる。

さわ子と森は、セックスの感想を紙に書き記す。
そして、それにより「最高のセックス」を目指す。
この紙に書くという行為にも「手」が関係している。
そして森とのラインのやりとりも「手」により行われる行為である。
また、さわ子の趣味であるおじさんの写真収集。カメラのシャッターを押すのも「手」だし、スクラップ・ブックを作るのも「手」だ。
「手は嘘をつく」(細かいところは忘れた…😅)というような印象的なセリフが出てきたが、さわ子の「手」により行われる表現には嘘はない。
彼女の正直な心境を吐露するツールとしても、「手」は機能している。

さて、本作はさわ子と森の物語かと思いきや、実はさわ子と父親の物語である事がだんだんとわかってくる。
この映画、つまるところはエレクトラ・コンプレックスを描いた作品。妻子ある男たちを無条件に受け入れる内なる「聖母」を殺し、代わりに父親の愛を手に入れるという映画なのです。

老化により父親は聴覚を損なう。これは「口」によるコミュニケーションが困難になったという事であり、それはさわ子と父親のコミュニケーションが変化することを暗示している。
つまりさわ子と父親とのコミュニケーションが、発話からノンバーバルなコミュニケーションへと移行していく事を表している。

さわ子はバスから降りようとしてふらつく父親の「手」を握る。
ここで初めて、さわ子は男性と性的ではない「手」によるコミュニケーションを行う。
これは彼女にとっての革命だった。セックス以外でも「手」によるコミュニケーションを行えるということを知ったさわ子は、それを通して父親と心を通じ合わせる事に成功するのである。

さわ子は、父親と同じ年齢層の男性を通して父親のことを理解しようとしていたのだろう。
年上のおじさんとばかり付き合ってきたのもそのためだろうし、「スクラップ・ブック」はその象徴である。
父親との繋がりを得たさわ子に、スクラップ・ブックも年上の恋人も不要。
だから最後に、彼女は津田寛治に別れを告げ、スクラップ・ブックを自らの「手」で処分するのである。
HeYaH

HeYaH