き

カラオケ行こ!のきのレビュー・感想・評価

カラオケ行こ!(2024年製作の映画)
-
和山やま先生原作。原作が大好きなので、綾野剛が狂児??という気持ちで、疑いながら恐る恐る観に行く。綾野剛は、全然狂児じゃないのに狂児だったし、山下監督の日常的なロートーンの物語の進め方とコメディセンス、野木さんの原作のエッセンスを逃さないままに的確に映画的に改変する力によって大傑作になっていた(かもしれん)。原作にありそうなエピソードや物語の展開の方法に、あれこれって原作通りだよね?と思わず考えてしまった(読み返したら違った)。恐れ入りました!とひれ伏す。と同時に、にまにまして観ているあたしとその3つあけの席で退屈そうに見ているひと。なんだかとても恥ずかしくなっちゃった。

映画の改変の大事な要素として、ひとつが「映画部」(?)に幽霊部員として所属しているところ。聡実が直面している変声期でソプラノが歌えなくなること、狂児が直面している歌ヘタ王になったら嫌いなものを彫られてしまうこと。それら原作にあった不可抗力なものと、新しく加えられた巻き戻し機能が壊れたビデオデッキを使い続けているために巻き戻しができず、一度再生された映画はもう二度と観れないという映画部にとっての映画という一回性が、映画を観ること(と、その一回性、『ブラッシュ・アップ・ライフ』のようにはやり直せないよ)=過ぎ去っていくものといっしょに人生を歩むということに重ねられているような気がして胸が熱くなる。(一度見てしまった映画はもう2度とそれを知る前には戻れないということ)。と思えば、岡聡実を演じた斎藤潤も、変声期の声を生かした役はこれが最後の演技だろうし、再現できないという意味ではそれも一回性だな〜とか考えた。その上で、それぞれが選択することで人生は進んでいくわけだけど、聡実が狂児の死を想像したときに、合唱祭を蹴り、ヤクザだらけのカラオケ大会に乗り込んで啖呵を切るという選択は、ソプラノパートで歌えた「かもしれない」最後の合唱祭を選ばず、狂児との時間を「選んだ」ことになり、その時間をともに過ごすことで湧き上がる他者への大切さを噛み締めるクライマックスだった。原作のもうすこしドライな(でも大切な)距離感よりも、映画のほうがもうすこし熱がこもっていたように感じていて(聡実から狂児に対する)、でも、やりすぎない作風は、きっと選ばないことで取りこぼしたものがあったことを承知で、選んだ結果なんだろうと想像したらよりいっそう愛しみが湧いた。
き