うべどうろ

カラオケ行こ!のうべどうろのレビュー・感想・評価

カラオケ行こ!(2024年製作の映画)
3.8
ヤクザと中学生がカラオケで歌う。十中八九”出オチ”とも思われるこの設定が何重にも反響して、最後には見事な感動が押し寄せるから、あら不思議。細かい部分でくすくすと笑わせるコミカルな作風と、思春期の微妙な成長と変化をとらえたストレートな構成が見事でした。そしてなにより、、、「紅だーーー!!」

▶︎3つの感想

1.完璧な「音楽映画」ではないか

この映画は、ひとことで言ってしまえば、「歌がうまくなりたいヤクザが、成長期に悩む合唱部男子とカラオケに行く映画」である。よく、ものづくりの世界では、「ひとことで説明できる企画が素晴らしい」と言われるけれど、まさにそのお手本のような作品だと思う。そして、そのたった一行の梗概から波のように広がる感情や物語の起伏。ただただ圧巻だった。シンプルなのに。

公式のあらすじにもあるように、この映画はかの有名なX JAPAN『紅』というカラオケ難易度MAXの曲に貫かれている。劇中で何度、綾野剛演じるヤクザ・成田狂児の「紅だーーー!!」という絶叫を聞いたことか。そして、その絶叫が、いつしか快感に変わる、あるいはその意味が変わっていくから、この映画は本当に素晴らしい。

最初は、狂児のあまり上手くはない勝負曲として。
次第に、狂児の過去を匂わす渾身の勝負曲として。
最後は、聡実の成長を告げる別れの勝負曲として。

たった一つの曲が、ここまで多様な表情を見せるのかと感動せずにはいられない。思い返してみれば、我々誰しも「人生の曲」があるのではないか。それは、成長とともに、時間の流れのなかで、何度も繰り返し聴く楽曲。ときには失恋の思い出として、ときには友情の思い出として、ときには成功や挫折の思い出として、その曲は聴こえる。私たちの人生とともにあるような音楽(楽曲)に想いを馳せる。

そして、この『紅』が担う物語上の意味(役割)を、そのまま劇中曲にも応用しているところが、私がこの映画をして、「完璧な音楽映画」と思った理由。

世武裕子が担当した劇中のオリジナル楽曲、不思議に軽やかなテンポと、どことなくひと昔前を感じさせる電子音で構成された表題曲『カラオケ行こ!』がとても心地よい。この音楽にあわせネオンカラーでキマるタイトルシーンなんかは鳥肌もので、このカットだけでも見にきた価値があると冒頭から思わせてくれる。

そして、この表題曲『カラオケ行こ!』のリズムとメロディーは、その後何度も繰り返される。ほんの少しアレンジを加えられて。鑑賞後にサントラを見たところ、『天使の歌声に出会った』『本名ですか?』『狂児のアホ』などと全17曲のタイトルが並んでいるが、実はその中身は『カラオケ行こ!』のアレンジに他ならない。つまり、『紅』と同じように、たった1つの曲が少しの変化でどのような聴こえ方もなることを表現しているのではないか。本当に見事だ。


2. 綾野剛ちょっとヤバすぎる

この映画に登場するキャラクターは、なぜか誰もが自然だ。力みすぎていないというか、ヤクザはヤクザなりの覇気を纏いながらコミカルに振る舞うし、中学生たちは語気を荒らげながらも純真な心を姿勢に宿す。役者さんたちの並々ならぬ演技力とともに、その自然を演出する監督の力量に感嘆せざるを得ない。『天然コケッコー』という日本映画史上に残る青春映画の傑作を生み出した山下監督は全く衰えていない。

そんななか、一人、まるでジェットコースターのように表情をかえる男がいた。そう、ヤクザ・成田狂児を演じる綾野剛だ。なんなんだ、この化け物は。『そこのみにて光り輝く』ですでにその才能は頭角を表していたと思うけれど、今回は綾野剛のカメレオンぶりが遺憾無く発揮されていたと思う。

狂児のベースは「ヤクザ」だ。容赦無く暴力をふるい、全身を黒服で包んだ痩躯の内実に闇を抱えていなければならない。この立ち振る舞いは、綾野剛の十八番ではないか。過去の作品でも数多く、闇を抱えた”アンコントローラブル”な役を演じてきている。

一方で、本作では「中学生と接する大人」という表情も見せなくてはいけない。しかも「歌が下手」な情けない大人だ。コミカルでありシリアス。ライトでかつヘビーという両極端を求められる。ただ怖いだけでは中学生とカラオケには行かないだろうし、ただ親しみやすいだけではヤクザとしての緊張感(この作品全体を支配する大前提)が崩れてしまう。

そして、綾野剛はこの難しい演技を見事にやってのける。そして、その先に行き着いたのが「かわいい怖さ」という、もはや意味のわからない境地だ。劇中を通して、狂児はずっとかわいいし、ずっとヤクザだ。だからこそ、岡聡実(齋藤潤)の心も変化する。この歪な人間関係に説得力を持たせてしまうのが、綾野剛だったのではないか。


3.“笑って泣ける”とはまさにこのこと!

最近の日本映画を見ていると、「暗い」「しんどい」映画が多い気がする。その出自からして不幸を約束されたキャラクターが、社会のどん底で生きる。そうした暗さを前提とした希望譚を描こうともがく。もちろん、そういう映画も大切で、現実社会に希望が持てない今、世相を見事に反映しているとも言える。

「泣ける映画」も増えてきた。”病死する恋人”の物語とその亜種なんかはその顕著な例で、最近のラブストーリーの半数近くは似たようなプロットに感じることもある。とにかく、最近の日本映画で「コメディ」の傑作を見ることが久しくなくなった気がする。

そんななか、この『カラオケ行こ!』は紛れもないコメディ映画だ。しかも、その笑いどころが細かい。「前奏42秒」「食卓のガパオライス」「”聖典”とよばれる合唱部のしおり」など、セリフの端々や、小道具、撮影手法などに”笑い”を忍ばせるのは、まさに映画らしいコメディではないか。コントのような大技ではなく、こうした細かい映像表現で笑わせるところに、本作の自信が垣間見える。

記事の冒頭でも書いたが、本作はその設定から基本的には”出オチ”である。ヤクザと中学生が同じカラオケルームに座り『紅』を歌う。その設定の面白さを抜け出せないのではないか。鑑賞前はそう思っていた。が、予想は裏切られた。

劇の中盤、中学生の聡実が声変わりに悩んでいるというプロットが唐突に持ち込まれるからだ。「歌が上手い」と頼られる聡実、合唱部の部長である聡実、そんな彼もまた歌で悩んでいるのだ。思春期に必ず訪れる成長の証として。

この瞬間に、『カラオケ行こ!』はただのコメディではなくなった。「ヤクザの歌が上手くなる」というコミカルな成長譚に、「中学生が声変わりを乗り越える」というシリアスな成長譚が並走するようになる。そうか、この組み合わせのために”出オチ”の設定が組まれたのかと思うと悔しいほどにぐうの音もでない。

そして、彼らが歌うのは『紅』なのだ。高音が出なくなる聡実にとって、これほど障壁となる楽曲はない。「終始裏声で気持ち悪い」という意見の本心が響き、その苦しさに涙が溢れる。


▶︎おわりに

本当に久しぶりに”笑って泣ける”日本映画を見た気がする。今年に入って議論が続く「実写化問題」について、この映画は見事な解答を示しているのではないか。もちろん制作現場でどんな問題が生じていたかは、観客である私たちにはわからない。ただ、「音楽」という映像ならではの表現をもって、原作『カラオケ行こ!』をコミカルかつシリアスに描ききった映画チームは、間違いなく信念を持っていたのではないか。そう思わせてくれる、紛れもない秀作でした。
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