ガリガリ亭カリカリ

カラオケ行こ!のガリガリ亭カリカリのレビュー・感想・評価

カラオケ行こ!(2024年製作の映画)
3.6
某曲の歌詞の意味を観客にあらかじめ周知しておいた上で迎えるクライマックスは、聡実くんが出せる最期のソプラノを絞り出す躍動感に満ちていて、そこはまんまとエモかった。文字通りに、その歌唱をもってして彼の"青春"は終わる。なんとなく終わったねぇーとか、学校で定められた目標の達成とか、外部から押し付けられる「青春」の幕引きからスルスルと回避していく。自らの意志で青春を"終わらせにいく"。声変わりという"成長"への抵抗感と無力感の殻を破って、恐らく、彼の人生で最も想いのこもった歌を唄う。その行動自体が成長以前に"終わり"を意味するかのように、青春の残り香を絞り出す彼の歌声には胸が熱くなる。

映画のショットというものは「決定的瞬間」を撮ったものであるとよく言われるが、紛れもなく彼の歌唱は再現不可能な、生涯一度きりのものでしかなくて、それが撮られたウエストショットは「決定的瞬間」に他ならない。

そして、この映画には「巻き戻しができない」というモチーフが出てくる。それは映画部のビデオデッキとして表象されるが、全ての時間は不可逆であることを物語っている。もちろん、青春も。
カラオケのように反復することができない狂児との時間を、聡実くんは反復する。巻き戻すことができない景色を意識的に巻き戻すモンタージュが挿入される。
思えば、この映画は「反復」によって「巻き戻す」という見せ方が丁寧だ。

狂児は、まるで生まれてその名が名付けられたときから「巻き戻せない」ような人生を生きてきたと語り、ヤクザの組員になった瞬間から、彼のビデオデッキは完全に「壊れる」。巻き戻せるかもしれないという希望は消える。
そんな彼が聡実くんとのカラオケを「反復」することによって、失われた青春を「巻き戻していく」ような意味合いが発生する。
カラオケボックスの部屋、中学校の校門の前、ミナミ銀座。ロケーションの反復それ自体は、劇映画では一般的なことではあるものの、この映画においては、その全ての繰り返された場所に二度と立ち戻ることができない、という印象がより強くもたらされる。

また、中学校の校門の前に停車する黒い車=狂児は、決して聡実くんがいる中学校には入れない。その黒い車で、聡実くんの家の近くまで彼を送るも、決して彼の生活空間には入れない。
このようにして、狂児と聡実くんとの間には境界が存在している。それは中学生とヤクザというそれぞれのパーソナリティ以前に、狂児側が聡実くん側の世界に「入れない」ことを印象付ける。
黒いスーツを着て、黒い車に乗った闇の人間、太陽の光から避けるようにして、薄暗い密室空間であるカラオケボックスに少年を拉致……って、まるで狂児は吸血鬼のようだ(吸血鬼も、入ることを家主に許可されないとその家に入ることができない)。

二人の境界線を突破する装置としてLINEが出てくる。狂児はLINEを使用することによって、初めて聡実くんの部屋や学校に「入る」ことができる(だから聡実くんがLINEをするシーンは部屋と学校しか示されない)。
目的を達成した(巻き戻せた)狂児が音信不通になることは必然であり、目的=コミュニケーション可能地点=カラオケボックスが不要の場所となったその時、狂児は聡実くんの世界に「入る」ことがもう許されないと悟る。たとえ、聡実くん側から「入っていいよ」と言われたとしても、狂児は"吸血鬼"としてのタブーを犯しており、それを拒むしか選択肢がない。何よりも、彼らにとってお互いがもはや「必要ではない」という結果こそが美しい。
ポストクレジットは如何にも続編(『ファミレス行こ』?)を匂わせる商業的作法だとは思いつつ、「電話」が選択されることによって、聡実くんの世界と接続=境界を飛び越えて再度「入ること」をキャラクターが選ぶ、というのは物語の推進力としては納得できる。

こういった境界線の演出は、狂児以外にもある。たとえば、両親は絶対に聡実くんの自室には「入らない」。本当に、まるで「入れない」かのように扉から先に足を踏み入れない。両親と聡実くんのシーンで、両親は一度も聡実くんとのイマジナリーラインを越えてこない。聡実くんが抱える葛藤に、両親は直接的には関わろうとはしない。焼き鮭の皮を箸で剥がした母親が、隣に座る父親の茶碗にその皮を移す。父親もそれを受け入れる。ここに台詞は無いが、この二人の間には(イマジナリーライン的にも)境界線がないことが巧みに示される。どんな言葉よりも、茶碗に乗った鮭の皮が、二人の関係性を物語る。

卒業式の日、映画部の黒いカーテンを聡実くんが開く。そこから差し込む陽の光。外界からさえぎられた部屋。光が「入れない」薄暗い密室と化していた映画部部室は、まるでカラオケボックスのようでもある(どちらの部屋でも「映像」を見ることを余儀なくされる)。聡実くんは、カーテンが開かれた明るい合唱部の部屋で生きていたが、狂児との「さえぎられた部屋」での密会を機に、窓もカーテンも閉まった薄暗い「さえぎられた部屋」へと誘引されていく。合唱部の後輩が、彼をそこから外界へと呼び戻そうとするも、聡実くんはますます「さえぎられた空間」へと向かっていく。

ごく当たり前に施される映画的な作法が、山下敦弘監督作品を観ているなあ、という喜びに直結していた。

とは言え、たとえば前述した感動のクライマックスにおいて、明らかに不必要なショット(ある人物が聡実くんを見つめている)が、明らかに不必要なタイミングで挿入されたときには興醒めした。それがコンテにあったのか現場で撮ろうとなったのかは定かではないが、あのショットをあのタイミングで挿入してしまうことは、物語のためでも映画のためでもなくて、単に観客の容易いエモのためでしかない。人物同士の切り返しでもないし、聡実くんの熱唱に接続すべきショットはあんな簡素なものではないだろと。単にショットそれ自体が良くないのもあるし、聡実くんの想いへの共感が削がれるような外しのタイミングになってしまっている。ってか、ワンカットだけて。MVとかCMの編集じゃないんだから。あそこだけコンティニティーが崩壊しているような感覚がある。それが良いと感じる人にはエモなのかもしれないが、ショットを選ぶ/ショットをこの時間に挿入することが明確に失敗しているような違和を感じた。

そのクライマックス手前に配置された事件も、どう見たって◯◯じゃないだろと、今更こんな手垢にまみれたクリシェと作劇で観客を引っ張っちゃうのかと、この辺から呆れてきてしまった。そこには何のサスペンスも描けていないし、スナックでのヤクザたちの反応もおかしすぎる(ドッキリでした〜ってこと?だとしたらもっと嫌なシーンだ)。つまり全てがクリシェのための段取りになってしまっていて、段取りの芝居、段取りの展開、段取りの感動、急に推進力が低下する。のに!聡実くんの最高の熱唱だけがそこにある!グッとくるゥ〜!が!初めから分かりきっていたサスペンスの種明かしにすらなっていない凡庸なショットが、聡実くんの行動に敬意を表しないようなタイミングで挿入される!オイなんでだよォ〜!
これは最高のエモーションのために、果てしなくベタに書かれたクライマックスなのだろうか。最高のエモーションのために、突然キャラクターは馬鹿になり、考えることもやめて、なんの疑いもせずに行動を起こしてしまうのだろうか。最高のエモーションのためなら、作り手の都合でキャラクターをあの場所へ導いて良いのだろうか。キャラクターが生きている瞬間を見せるために、キャラクターをロボットのように操作してしまって良いのだろうか。

自分はこういった作為は好まない。原作通りかそうじゃないかも関係なく、こういった作為は漫画であれば(あるいは小説であれば)、心理描写や地の文によっていくらでも違和感なくごまかせる。映画は被写体の行動それ自体がダイレクトに記録されるメディアなのも相まって、作り手の作為が表面化しやすい。
作為が表面化することを批判しているのではなく、"うまい"作為の表面化というものがなかったのだろうか、という投げかけの気持ちに近い。
ごまかしはテクニックだ。ごまかしていることを観客に悟られないための技術。その技術によって、映画は"嘘の真実"になるのだと考える。
(同じような感想を『わたしは最悪』を観たときにも感じていた……)

あと、どう見てもカラオケが綾野剛よりも下手くそなヤクザがたくさんいるのに、狂児がビリになるかもと思っている理由が全然分からなかった。

それと、拉致した相手が聡実くんじゃなかったら、フツーに中学生にトラウマを与えかねない嫌な話なんですが……ヤクザに拉致されてカラオケ教えてくれと言われるって、平山夢明みたいな話じゃん(笑) 否、聡実くんだから成り立っていることは理解できるけれど、彼だってヤクザの前で怯えながら土下座した、その行動を選択せざるを得ない状況だったことは確かで、結果的に出会いに感謝!みたいになっているものの、中学生に土下座させたり、もう無理です!と言わせていたり、各所で恐怖を与えていて、それらの恐怖心が聡実くんの"成長"に繋がっていたとは到底思えない。
まあ、『カラオケ行こ!」というコンテンツに向ける指摘ではないのかもしれないけれど、自分はヤクザに拉致されて怯える中学生を見ているのが"楽しい"とは思えない。いくらニコニコ、心の優しいヤクザだったとしても、それがファンタジーだとしても、現に聡実くんがビビっている姿が記録されていたのだから、彼は"怖かった"んだ。自分は心底、"怯える側の気持ち"の方へ移入してしまう。だって映画はドッキリ番組でもないし、観客はドッキリ番組で笑う視聴者でもないでしょ。密室でニコニコ接近する大人の男性と、それに引いてる中学生。大人側が善人として観客が認定できちゃうと、そんなシチュエーションも"楽しめちゃう"のだろうか。
中盤から中学生側も彼を受け入れるけれど、なんか、いや本当に良くないことを敢えて書きますが……ジャニー喜多川……グルーミング……とかを思い出していました……………。

外の世界の危うさとままならさ、正しくない大人に惹かれていくこと自体に異論はないですが……。
「きれいなもんしかあかんかったら、この街ごと全滅や」

でも、綾野剛も齋藤潤くんも信じられないくらいにチャーミングだった。
合唱部の子たちもめっちゃいい。特に和田くん。最高。スネ方も最高。「森丘中合唱部は終わりや!」「やらしっ!学校でやらしっ!」「おばあちゃん家で見たことあるし……!」爆笑。
映画部の子も映画ガン見してる時の顔が自分すぎて最高。「(動画じゃなくて)映画だ!」
(合唱部顧問が産休のため、副顧問だが顧問を担当している)芳根京子が全く物語的な役割も果たさない、本質的には先生というキャラクターすら演じていない、ずっと「愛やで!」と言っているだけなキャラクターなのにものすごく好感が持てる。全くムカつかない。魅力が演出できてる。
宮崎吐夢が、しょぼーんと落ち込む、いいっていいって〜と勘違い謙遜する、の2個くらいしか芝居してないのに、どちらも爆笑した。
ああーこの感じ、やっぱり『もらとりあむタマ子』を撮った山下監督だなーという安心感を感じた。

軒並みの大絶賛の中、可もなく不可もなく……という印象で若干居心地が悪い……(めちゃくちゃ周囲からおすすめされていた)(俺にこの映画を「今年のベストワンです!」とめちゃくちゃおすすめしてくださった人にこの感想を読まれたら「……カラオケ行こ😊」って拉致されるかもしれない)。