るるびっち

ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界のるるびっちのレビュー・感想・評価

2.8
近い将来 、AI が脚本を書いたらこんな感じになるのだろう。
問題提示や価値観の変革の押し付けばかりで、物語としてのカタルシスやドキドキはない。
AI は問題提示や啓蒙は出来るが、どういう物語が心を打ちワクワクさせるかが分かっていないのだろう。
これを人間が作ったのだとしたら、そいつは AI 並みの頭しかない情報処理人間だ。感動は情報処理ではない。

三本足の犬、同性愛の息子、黒人の妻。
ポリコレやLGBTQ対応は分かる。
しかしドラマと無関係なら、出す意味がない。
三本足なら三本足の意味がないといけない。それがドラマだ。
例えば前足が足りなくて、犬なのに上手く土を掘れない。
だから飼い主が補助してやり、そのせいで重要なアイテムを土の中から見つけたというように、物語に機能しないと意味がない。
それはポリコレとか、LGBTQ以前の脚本のルールだ。
観客は画面に映る物は、何か意味があると無意識に感じている。
だから物語を語る上で不要な物を、これ見よがしに映してはいけない。
ノイズになり、誤解や理解の妨げになるからだ。
映画創成期からある基本的なルールだろう。
ポリコレを語る前に、映画の基本ルールを学べ。

同性愛の息子を出すなら、それを理解しない父親が分からず屋の祖父を見て、同じ態度を息子にとっていたと反省するとか。
ドラマとして意味がないと、ワザワザ同性愛にする必要がない。
多様性社会だからそんなのイチイチ取り上げないけど、背景としてマイノリティも自然にいるんですよということなのか?
こういうことに観客は、次第に慣らされていくのだろうか?
今の所は、ウザいし押し付けがましいと感じる観客も多い。
映画レビューをディズニーは、もっと読むべきだ。

冒険家の父親の押し付けがましさが嫌で、農夫になった主人公。
気づけば父親同様、息子に農夫としての生き方を押し付けている。
その事で息子に反発を食らう。
だが、それを長々と台詞で言うべきではない。
台詞で言うと主義主張の説明になる。
それこそ押し付けだ。
観客は演説を聞きに来てるのではない。映画を観に来てるのだ。
主張はプラカードを掲げて行進すればよい。映画でやることではない。

サイレント映画を見て、台詞以外の表現を研究するべきだと思う。
台詞が自由に使えない分、小道具やリアクション、画面構成や表情、何かに象徴して示す等のノンバーバルな表現力がサイレント時代には磨かれた。
言葉に頼ると、それらの表現力は落ちる。
ましてや冒険映画なのだ。
言葉ではなく、命の危険のアクションの中でそれらを示すべきだ。
大人の常識では乗り越えられなかった壁が、息子の柔軟な行動を信じたら成功した。そういうことを冒険の旅の中で体験する。
そしたら言葉を使わなくても、大人の常識を押し付けるより息子の考えを認めて信頼すべきだと身を持って解るじゃないか。
台詞に頼らない工夫とはそうしたことだろう。

ボードゲームを家族でやるシーンは最悪。
「敵はいらないんだ、環境を保護すればいい」と説明する。
正に本作のテーマだ。
だったら100分も観る必要はない。
このワンシーンだけで十分だ。ハッキリ言ってるんだから。
だからプラカードは要らない、映画を見せろ!!

M 1でウエストランドが優勝した。
コンプラ配慮のテレビの詰らない笑いを、串刺しにした内容だった。
誰も傷つけない、食品も粗末にしない安全な笑い。
そんな温い、ぬるぬるテレビに客は飽き飽きしているのだ。

バンバン人が死んで、バンバン差別して、でもひっくり返って、バンバン悪人が出て、バンバンアクション、バンバンお色気、バンバングロ描写、下品な笑いを叩きつける。
毒舌映画で、ディズニーのポリコレぬるぬる映画を串刺しにしてやりたい!!

勿論それは古い映画に逆戻りなのだが、 AI脚本では人の感情は動かせないことを見せつけないといけない。
環境配慮も公平な世の中も人種配慮も、大切なのは分かる。
けれど押し付けがましい父親以上に、映画自体が押し付けがましい。
そんなディズニーに対して、ウエストランド的な毒舌映画を叩きつけてやりたいのだ!!!
るるびっち

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