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そばかすのSQURのレビュー・感想・評価

そばかす(2022年製作の映画)
4.0
AロマやAセクを自認する人がどのくらいいるか知っていますか?100人中3、4人らしいです。今日の劇場には50人くらいいましたので1人か2人いるかどうかだったのだと思います。

笑える映画だったようで、鑑賞中何回も笑い声が聞こえてきました。
その度に私はどうして笑っているのかを確かめなければいけませんでした。それは馬鹿にされているのか、それともそうではないのか。敵なのか、違うのか。ことある度に確認しなければいけませんでした。でもそんなこと分かるわけもないです。その人がどういう人間で、どう感じて笑っているのかなんて。
映画というメディアの特性として、同じスクリーンに向かって何十人と向き合っていることをこんなに恐ろしいと思ったことはありませんでした。
私は常に確認し続けなければいけませんでした。敵か、そうじゃないのか。演者は?監督は?脚本家は?関わる全ての人の人生を疑って、確認しようとせずにはいられませんでした。普段どんな言動をしていますか。恋愛をしない人を"ほんとは"どんな気持ちで見ていますか。どんな気持ちで映画を作ったのですか。

劇中ではあえて、AセクやAロマという言葉を出さなかった、と鑑賞前にちらっと記事を見かけました。内容まではまだ確認できてないのですが、鑑賞中そのことが気になりました。ゲイやレズビアンという言葉は出てくるのに。
確かに、人のアイデンティティは常にラベルに先立ちます。ラベルにそって人が生きることはないです。
しかし、私(たち)の不安はどうなってしまうのでしょうか。私たちは大抵自分をラベルに当てはめようと悪戦苦闘します。違和感を覚え、やがてAセクという言葉を知り、そしてそこに"本当に当てはまるのか"確認し続けることを余儀なくされます。その不安は透明化しても良いものだったのでしょうか?

そして、これはこの映画が悪いということではないのですが、マイノリティを描くとき、まずは苦しみを描き人口に膾炙して理解を得てからその強みが描かれるようになる、という一連の暗黙の了解のようなものがある気がします。
この映画も、人と違うことの苦しみとその自他による受容が描かれます。しかし、「人を好きにならない」というのは別に欠けていることではないのです。これは"強み"なのです。段階なんて踏まずにまず"強み"を押し出しては駄目なのでしょうか。優越していることを描いては駄目ですか?

観ているあいだとてもドキドキしました。不安でした。こんなに不安だったのは『ヘレディタリー/継承』を観たとき以来でした。どんな些細な描写で自分が怒り出して席を立つか、または泣き出したり嘔吐したりするか分からないと思ったからです。とても怖かったです。辛かったです。

この映画を観た人が、色々な個人の違いに想像を及ばせず、単一の表象として「恋愛をしないこと」を理解することが怖いです。どう理解されるのか。
しかし、これも鑑賞中に思ったことなのですが、どうしていつでも、恋愛をしない側が説明をする責任を負わなくてはいけないのでしょうか? この映画はカミングアウトをすることをひとつの超克として描いているような気がしました。でも、自分でも証明のしようもないこと(AセクAロマは常に悪魔の証明と向き合わなくてはいけないのです)を証明しなくてはいけないのでしょうか。私はむしろ"あなた"が本当はそこまでいうほど恋愛感情を覚えてないことを証明した方が早いと思います。

この映画は近すぎてうまく評価できないです。良い映画かどうか分からなかったです。
ただ、後半の海のシーンは良かったです。あそこで終わっても良かったですね。
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