ルサチマ

私立探偵濱マイク 名前のない森のルサチマのレビュー・感想・評価

5.0
35mm、71分版。たむらまさき特集にて青山真治『名前のない森』鑑賞。

大金持ちから託された家出娘の連れ戻しという探偵ドラマは、サンダルを突っ掛けた裸足の女の登場によって見事に煙に巻かれ、代わりに固有名詞を剥奪された者たちによる繋がりなき連帯構造が浮き上がる。

この施設に暮らす名前のない人々の目標は、本来見つけるべきでない目的=死への決断をするかどうかという、いたって単純なものだ。彼らは催眠術のような前近代的手法を取り入れることで現実逃避するのではなく、鈴木京香に導かれるまま病(自由)を受け入れることを強いられるゆえに、名詞なき死の世界へとたどり着くことを夢見る。

鈴木京香がマイクにもたらすのは、自分が自分にそっくりの木(名詞はない)とショット/切り返しショットを見出すことであり、本来森の中(グループショット)に存在する木(単独ショット)と近代的な関係を構築した時、名前のない人々は個としての自らの生命が宿るショットを絶対的なものとすべく、死と直面するのだが、このとき裸足の女(大塚寧々)が冒頭で明らかにその他の名前のない人々とは異なる単独ショットに収められていたことを思い出す。

名前なき人々は、匿名の集団(グループショット)に所属しているように見えて、実は単独のショットを己の力で独占することが卒業=死を獲得できることだと知っており、だからこそ彼らはいくらグループショットに収まっていようと、リズムはバラバラに個としての存在を儚くも主張する。

だが、このドラマ(映画)の濱マイクは冒頭から既に切り返しショットを引き寄せており(「この自信たっぷりの顔を見ろよ!」)、彼が終盤に己にそっくりな木を見ながらも、他の人物同様に死へと向かわなかったのは、彼が個の切り返しを獲得したとて、それは単なるモンタージュでしかないことを知っているからだろう。

単独のショットも一連のシークエンス内のカットに従属し、それ単体で輝くことはないように、濱マイクはショット/切り返しショットの関係を特権視しない。故に単独で追っていたはずのカメラは彼を追いつつ、次第に無理矢理グループを広げていくようなカメラワークをしているようにも見える。
※青山真治が助監督時代に溝口健二について執筆したテクストの実践にも思える。

ラストで濱マイクの単独の正面カットから森全体のグループショットへオーバーラップしていくのはまさに単独のショットとグループショットが見る/見られるの関係を築きつつ、どちらも単なるワンカットでしかないことを暴くようでもある。
ルサチマ

ルサチマ