映画漬廃人伊波興一

私立探偵濱マイク 名前のない森の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

4.2
昨年2022年に逝ってしまったふたつの巨星、ひとりは言わずと知れたジャン=リュック・ゴダール、もうひとりは駆け出し程度の映画青年にはまだ不透明な青山真治。

まだ醒めぬ夢の中であられもない言葉を綴る気か?
あるいは取るに足らぬ世迷言で己が身を弄ぶつもりか?
そもそも青山真治作品で何故ゴダールを引き合いに出すのか?

凡庸な作家が一生に一度撮れるか撮れないかの作品を、あっさり撮りあげてしまう青山真治に触れる事は、ゴダールに触れる事に他ならない、と近所の若い芸大生たちにひたすら吹聴し続けてきた無責任かつ、いかがわしい戯言として聞き流して下さい。

今日では誰もが警戒する(自分探し)を謳う集団に属してしまった娘を連れ戻して欲しい、と父(原田芳雄)から依頼された探偵濱マイク(永瀬正敏)が辿る実践的な行程を軸に展開していきます。

依頼主の娘(菊池凛子)が身を寄せている山あいの建物の周囲には、一応整備された道路があり、歩いても辿り着ける位置にレストランだってある。

にも関わらず、濱マイクが車から降りて見渡す何本もの白い幹の針葉樹の湿り気は、都市から遥か離れた樹海のような寒々しさを醸し出します。

ひとまず目的の娘に近づくために、その施設に身を寄せる事になる濱マイクは、地面を引きずるような丈の長い衣服を纏った(先生)と呼ばれる鈴木京香からまず(名前)を奪われ37番という呼称を与えられます。
私たちは否が応に「アルファヴィル」「ウィーク・エンド」「メイド・イン・U.S.A」などに通底する、質問と意見を介さないゴダール的な(不問と空白の法則)に巻き込まれた自覚を余儀なくされるのは言うまでもありません。

そもそも、この(自分探しの館)である白い建物がかつていかなる空間として機能していたか誰にも分からない。

もしかしたら高級特養老人ホームのように快適な居住空間であったもしれないし、瀟洒で、白い幹の木立ちに取り囲まれている点から、真夏には避暑目的の会員制リゾート施設だったのかもしれない。
ですが、そんな郷愁や想念など、ことごとく遮断されとりとめない現代の装置として、ここの入居者たちの、光を失った瞳に呼応しながら、無機質な表情を晒す事になるのです。

マイクが聞いた所によれば、どうやらここに居る者は自分がやりたい事を見つければ卒業するらしい。

物語の序盤で、いささか年齢不詳な男性が(卒業)する場面がありますが、能面の笑みを浮かべた鈴木京香先生以外は誰も表情ひとつ崩さない。
せっかくの旅立ちの日なのに手向けの言葉ひとつかけない。
濱マイクが詰め寄ると、入居者はひと言
(次が自分だ、と思えばとてもそんな気分になれないよ)
事実、卒業した男が直後にしでかした事件をレストランの新聞で知って茫然となった濱マイクが、鈴木京香先生に、
(あなた一体何者ですか?)と、問いかけても
返ってくる応えは、やはりひと言
(さあ?あなたは?)

およそコミュニケーションの厚みを欠いた、この質疑応答はロマンチックな思考など刺激せずとも、何かに憑かれたように、この空間に私たち自身の瞳を踏み惑わす事を予見させてしまいます。
一たび足を踏み入れてしまった濱マイクは、それまでとは違う自分と出くわすに違いない、と。
しかも、この不条理の空白を形成する、幾重もの質疑応答、空間や気配などの網状組織は、建物周囲の白い樹海のような森林地帯にまで増殖していくのです。

鈴木京香先生曰く
(あなたにそっくりな木があるの。一度見て下さい)
そう言って息切れひとつせずに案内してくれる彼女について行くうちに、やがては終わりの無い試みを強いられている気に囚われていきますが、濱マイクと同様に、観ている私たちもやはり、おいそれと諦めるわけにはいかなくなるのです。

このドラマにも一応の顛末らしきものが用意されています。
しかし顛末そのものよりも、このドラマの重要な点は、得体の知れない真理を予感し、生死をも超越した何かが実在するかどうか確かめるべく、分際も弁(わきまえ)ずに、ぐんぐん猛進させていく画面の求心力にあります。

それが難解であるとか、不条理であるとか、前衛的であるといった余計な忖度など入り込む余地などある筈がない。

青山真治やゴダールに囚われるとは、文学にも、音楽にも、その他芸術どころか哲学にもなかった、その画面の中だけにしかないものがそこにある、と信じてしまう事に他ならないからです。

CMを除けば約54分ほどの尺のTVドラマ。

ですが凡庸な才能では一生に一度撮れるか撮れないかの傑作です。