脳みそ映画記録

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいの脳みそ映画記録のレビュー・感想・評価

2.8
生きづらい若者を取り扱う邦画が最近多いですね。

ぬいサーの人たちは大学というある種の守られた空間から社会に旅立つのだけれど、きっとそこでも同じように生きづらい思いをすることでしょう。
むしろ、社会に出てからの方がより一層でしょう。
叩くほうが悪いけど、きっとそんなことを言っても誰もきいてはくれない。

ぬいぐるみとしゃべらない白城のモノローグは七森や麦戸のその辺りの危惧でしょう。
ただ、白城自身も全然大丈夫じゃない人であることに気がついていない。
最後のモノローグを白城目線にしたのがすごくよかった。

でも、こんな人たちって本当にいるんですよ。
「やさしい」とか「繊細」とか「気にし過ぎ」とか「共感性が高い」とか「軟弱者」とか「気味が悪い」とか色々な言葉で表現されています。

自身の発言の加害性って発言する上で絶対に回避はできない問題です。ぬいぐるみに話している人でも、人と話すことはあるでしょう。
映画の中でも七森は他人を傷つけてしまうのが怖くてぬいぐるみと話しているけれど、結局は白城を傷つけてしまっている。
加害性は自分の性別やひいては存在にまで派生して考えることができます。

夜の路地で前をたまたま女性が歩いている。七森は自分が男だから後ろを歩くことが、その女性に怖い思いをさせてしまうという、恐怖から歩けなくなってしまいます。
これって、めちゃくちゃ共感できるシーンでした。
男性というだけで既に加害性を孕んでいる。
加害性の自認を突きつめると誰も傷つけないためには存在するのをやめるしかないわけですよ。

一方で痴漢をされている女性に何もできなかった麦戸。
加害は身近に横行していて、それが当たり前な世の中です。これってすごい怖いことですよね。引きこもりたくなるのもわかります。
みんながやさしい人であれば世界はもっと違うのでしょうが、みんながぬいサーの人たちみたいだったらきっと社会は成り立たないでしょう。

結局、発言も行動も存在すら加害性を排除できないのだけれど、その発言や行動や存在で救われることもたくさんあります。
だから「もっと話そうよ。」ということなのでしょうね。