ふわふわしたものに、つぶらなおめめをつければ、それはぬいぐるみ。
ぬいぐるみサークルの学生たちが言う「やさしさ」は、「共感性」のことなのではないかと感じた。ひとの気持ちがわかる、ひとの痛みがわかる、それは確かに「やさしさ」を形作るものではある。だけど、「やさしさ」には足りない気がする。「やさしさ」には「強さ」や「おおらかさ」が必要だと私は思う。主人公の「やさしさ」は、(ぬいぐるみではなく)心を分かち合える友達と語りあったことをきっかけに、本当の「やさしさ」に近づいたように感じる。
繊細で傷つきやすい若者たちの安全基地のようなぬいぐるみサークル。どれくらいの頻度で活動しているんだろう。自分にしかわからない傷をぬいぐるみに話して楽になることは悪くない。だけど、それを習慣にすると、傷つき、怒り、違和感、それらをコレクションするようになるんじゃないか。こんなに繊細で傷つきやすい自分ってかわいそう、だけどそんな自分がかわいい、と思っているように見える。
サークルの学生たちの会話には、5分に一回くらい「かわいい」っていう言葉が出てくる(私の体感)。ぬいぐるみ、かわいい。恥ずかしい、かわいい。泣いちゃった、かわいい。失敗しちゃった、かわいい。「かわいい」って、なんて気持ちいい言葉なんだろう。言うのも言われるのも。
私が親近感を覚えたのは白城ちゃん。
ぬいサーの居心地良さは好き。だけど、ずっとここにいてはいけない、と思う気持ちもある。ぬいサーの傷つきやすい友達を側で眺めながら、自分はぬいぐるみとしゃべらない。ほっときゃ治る傷を数えるようなことを、彼女はしない。でも、自分の傷に気づかないほど鈍感にもなれない彼女は、リア充的サークルとぬいサーを行ったり来たりしてる。そんな中途半端さに共感した。
「わかる」と「知らんがな」を行ったり来たり。私にとっては、そんな映画でした。