Eegik

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいのEegikのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます


我が愛しのぬいぐるみ(抱き枕)と一緒に鑑賞


ラストのタイトル回収そういうことかぁ〜〜〜!!!


この作品は「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」と言うけれど、世の中には、この作品における「やさしくない」側の、差別や政治に無関心でもぬいぐるみとしゃべる人だっているだろう。なのに、この作品ではそういう存在への想像力が欠如していて、そういう人たちを無意識に排除しているのではないか。 そう思いながら観ていた。
「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」の対偶をとれば「やさしくない人はぬいぐるみとしゃべらない」となり、本当にそうかな?と。そうじゃないからこそ、この世界/社会は複雑で困難に満ちているんじゃないのかな、と思うので。

でも、七森くんが地元の飲み会から逃げ出したときにいう「悪いやつはもっと悪くないと」という言葉や、麦戸さんとの対話、そして最後には、タイトルを言っていたのが「ぬいぐるみとしゃべらない」側の白城さんだったことが判明して、なるほど、これはちゃんと、そういう想像力が欠如してしまっている人々であるという認識のもとで作られている映画なんだなぁ、と安心できた。白城さんの存在に救われている映画だと思った。


そもそも、生きづらさなどのシリアスな悩みを聞かされる(受容/反応を求められる)ことで、相談された側が傷ついてしまう、負担にならざるをえない、だからぬいぐるみに喋ろう、というケア労働の負荷・対話の困難から物語が始まっている。みんなイヤホンで耳を塞いで独り言が誰にも届かずに浮かんでは消えていく特殊な語りの場・音響空間は静かに印象深く感じられた。

しかし終盤には、お互いに引きこもっていた七森と麦戸のふたりが、それでもちゃんと相手の話を聴こうとする、相手に自分の話を喋ろうとする。つまり最初に否定されていたはずの「対話」がやっぱり大事だよね、と再称揚されるかたちになり、いや……まぁそれはそうなんだけど、この映画としてはそれでいいの??と戸惑っていたところであのラストの台詞だったので、きれいに刺さりました。「喋らない」ことの大切さ。「喋る」ことが大切であるのと同等に。
七森くんは最後、部室のたくさんのぬいぐるみ達がこちらに喋りかけているように感じると言っていたけれども、それでもわたしは、ぬいぐるみはこちらに絶対に話しかけてこないことが本質的に重要だと思う。自分との閉じた対話(独り言)にならざるを得ないからこそ、そこに可能性も危うさも両方ある。


ぬいぐるみ一人称視点ショットはどう解釈する?
喋らなくても「見る」ことはいい? 映画のカメラとは何か? 喋ることと見ることの違いは?



水のモチーフ 洗い流す 川
ぬいぐるみ自体に水分・水気はないからこそ、必要になってくる
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