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熊は、いない/ノー・ベアーズのthornのレビュー・感想・評価

4.6
大江健三郎の「飼育」とカフカの「城」を思わせるリアリズムと薄気味悪さ。車を覆う砂埃が印象的だった(それ考えると、もしかして「砂の女」か?)。どこからが現実で虚構なのかわからない物語の三重構造。高級車を乗り回す監督はスタイリッシュで、しかしながら田舎町とはそぐわないその様子は自身を皮肉っているようにも感じられた。終盤で現実を撮ると約束したのに、こんなものは虚構だと女優が激昂するシーンが印象的だが、面白いのは彼女が誰と話してるのか全くわからない点だ。彼女は最初ヘッドフォンなしで画面に向かってパナヒと会話してるのである。現場にはパナヒはいない(という設定)。彼女は思い直したようにヘッドフォンをつけて監督と遠隔で会話しはじめる(遠隔通話の演技、つまりこれは現実には通話してない、という暗喩なのかもしれない)。彼女は撮影方針に憤慨しており、かつ映画演出のために国外に偽造パスポートまで作って脱出させようとする非人道的(映画的には至極正しい)監督のやりかたに激怒。観客はこれが演技なのか、演技内演技なのか、俳優が監督の方針にマジ切れしてるのかわからず混乱する。わたしには現実の本当に映画を撮っている監督に対して怒っているようにしか見えなかった。これはたしかに、非映画的な表現かもしれません。そして「本当に映画を撮ってる監督はどこにいるのだろう」と思わずにいられない。ここすごく感動してしまいました。監督は監督自身を表現してるんですね。彼が撮影班との実際の距離を近くしようとする意味をいろいろ考えてしまう。まるで監督自身の生活と虚構をひっくり返したような映画だ。生活が映画で、映画が生活なのだ。結局映画の中のお話ではあるけども、彼女は死を演じてるのか、物語現実の中で事実上死んだのか、それはわからない。しかし現実に2人の若者が彼の芸術により死に追いやられる。薄気味悪い因習をもつ村人をとても人間味を持って描いていることは監督の人間愛を感じますね。村人はみんないないはずの熊に怯えているという。熊とは果たして何者なのだろうか。伝統?因習?流れる空気みたいなもの?それともどこに実在しているかわからない雲隠れしている監督自身?(たしかに監督がこなければ彼らは死ななくて済んだのだ...)芸術が世界の真実を映し出すものであるならば、他人を殺すこともありうる..映像芸術そのものが「熊」なのか知れない。この国に「熊」はいない。いてはならない。社会批判よりも、映画から伝わるのは、「散在する」というイメージだった。監督の自戒を感じざるを得ない。映画が映し出す現実は散在している。そうせざるを得ないから、ということもあるが、表現として現実を散財させているのだと。まさしく映画とはなんなのか。映画表現とは、という切り口。パナヒに宣誓を強要する際に最初コーランを用意したのに、ビデオを回すと監督がいったら途端にコーランは不要と村長が言ったのが本当に痛快だった。神への約束よりも、現実の画像や動画を証拠とするなんて、イラン人はとても現実的なんですね。映画は、映像は、現実。それだけ現実が逼迫していることの証左なのか。まさにこれは神の不在。彼らの信仰が散り散りになっている様を明確に表している。傑作だと思う。
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