YasujiOshiba

キアラのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

キアラ(2022年製作の映画)
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イタリア版DVD。23-52。これはBDが欲しい。DVD画質であれだけ美しい。劇場で見る人は幸いなるかな。音もよい。

なにしろ音楽が良い。ラストの曲を除いて、すべては物語世界内の音と物語世界に関係する楽器が効果的に使われている。しかもモダーンなのだ。ニッキャレッリ監督が言うように、それはカート・コバーンのグランジのようにも聞こえないこともない。

そして言葉の響き。耳に響いてくるのはイタリア語ではない。イタリア語になる前の俗語(ウンブリア方言 volgare umbro)。キアラの依代のマルゲリータ・マッツゥッコ(Margherita Mazzucco [Napoli, 2002])をはじめ、フランチェスコを演じた若いアンドレア・カルペンツァーノ(Andrea Carpenzano, [Lugo,1995]:彼は今回の映画祭で『スイングライド(Calcinculo)』にも出演してるのね)や、修道士や修道女たちも、その俗語を学び、吹き替えなしの生録で撮影にのぞむ。だから響きがイキイキとしていると同時に、どこか遠くの世界の言葉のようでもある。

ぼくはイタリア語字幕で見たけれど、なんだかローマ方言のような、ナポリ方言のような、いったいどこの方言だろうというような響き。それが心地よい。そこにラテン語がまじり、フランス語のシャンソネットが歌われるのだからたまらない。まさにタイムスリップ。

そして衣装がよい。ヘアスタイルがかっこいい。ニャッキャレッリは70年代の『ヘアー』(1979)や『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)を意識しているという。フランチェスコの長髪やヒゲはまさにヒッピーのフラワームーブメントのそれ。しかしだからといって史実は裏切っているわけではない。現代的な解釈をしてみせただけ。

だから髪を切る前のキアラから、髪を切った後の姿へのジャンプが、めちゃくちゃカッコよい。ショートも似合うじゃんね。そう思わせる。いったいこれまで、そんなかっこいいジャンプを、誰が見せてくれたというのか。スザンナ・ニッキャレッリの前にいるのは、せいぜいリリアーナ・カヴァーニぐらいだろうか。アッシジの聖人の依代にミッキー・ロークを選ぶなんていうモダンなセンスが、ふたりに共通しているように思える。

ニッキャレッリの伝記映画はこれで3部作となる。冷戦時代の最後を舞台にした『Nico, 1988』(2017)から始まり、国民国家が次々と成立してゆく19世紀の『ミス・マルクス』(2020)を経て、俗語がその地位を大きく飛躍させ政治や宗教が大きな変革期を迎えようとする13世紀を舞台にした『キアラ』(2022)へと至る。

彼女の次回作は脚本家として参加するベロッキオ監督の『Rapito』(2023)。これは19世紀のイタリア統一のころに起こった「エドガルド・モルターラ誘拐事件」を扱うもの。邦訳が早川書房から出ているのだけれど、宗教や政治や人権の問題として、これもまた今でもなおアクチュアルな主題。こちらも実に楽しみだ。

5/3 追記 : FBでのやりとりから。

アッシジのフランチェスコが「被造物の讃歌」(Cantico delle creature )を記したのは1225年。キアラー・フルゴーニの『アッシジのフランチェスコ』(三森のぞみ訳、白水社)を覗いてみると、彼はこれに節をつけて歌わせていたようだという。さらに、フランチェスコはフランス語も話していたという指摘がある。だからその名前もフランチェスコだったのかもしれない。少なくとも当時としては珍しい名前だったのだという。

このフルゴーニの研究を、スザンナ・ニッキャレッリ監督は見事に映像化。さすが哲学科を卒業しただけのことはある。本人も政治と宗教にはどうしても哲学を学んだからどうしても関心が向かってしまうと語っており、参考にしたのがフルゴーニの著作だったというのだから納得できる。

フランチェスコが聖書の言葉を俗語で伝えるべきだと言い、「被造物の讃歌」を記したことが感動的に描かれている。なるほどパッと思い浮かぶのはルターの聖書のドイツ語訳(1534)であり、フランチェスコの先進性を言いたくなるが、じつのところ、ルターに直接関係してくるのは、イギリスのジョン・ウィクリフの聖書の英語訳(1382年)や、その影響を受けたチェコのヤン・フス(1360?-1415)のチェコ語聖書の改訂などだ。

アッシジのフランチェスコの「被造物の讃歌」は、ウィクリフの聖書訳の100年ほど前になるのだけれど、彼の革新性の背後には11世紀ヨーロッパにおける「農業革命」と人口の爆発的な増加があるのだろう。これによって社会は大きく動き、経済も活発化する。とうぜん政治も、そして宗教も、これに対応してかなければならに。

なにしろ人が動き、さまざまな言語が響き合い、メンタリティーが変化してゆく。その変化のただなかに生きたフランチェスコとその兄弟たちは、まさに時代の代表なのだ。

ただしニッキャレッリが新しいのは、そこには当然女性たちもいたということを思い出させてくれたこと。キアラとその姉妹たちだって、変化の時代を生きたはずなのだ。そこに目を向けて、丁寧に映像を言語と音楽を紡ぎ出したからこそ、実に実にモダーンな映画に仕上がった。そいうことなのだろう。
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