じゅ

ボーンズ アンド オールのじゅのネタバレレビュー・内容・結末

ボーンズ アンド オール(2022年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

マレンがリーを食うところの曲めっちゃいいな。just(for) a minuteどうのこうのってやつ。エンドクレジット見てもずらっと並んだ曲名のどれかよくわかんなかったけど。最後から2か3番目くらいのだと思うんだけどな。

『RAW』でも思ったけど、人を食う人の話のキスシーンが怖くてたまらないのよな。漫画『範馬刃牙』のジャック・ハンマー対ピクルみたいなことをもし実写でされたらと思うときついのよ。
あとジャルジャルの『ハンドイートマン』のコントを見る目が変わるわ。
まあそんなことはどーでもよくて。


高校生のマレン。寝ている父の隙を見て抜け出して同級生のお泊まり会に行った際、おもむろに彼女の指を食べてしまう。悲鳴で我に返ったマレンが逃げ帰ると、すぐに父は彼女を連れて家を出た。
このようなことは以前もあった。18歳になったマレンを独り残し、父は別れた母の出生証明書と娘の生い立ちを語ったテープといくらかの金を置いて出ていった。マレンは母を訪ねて旅へ出る。道中では、"同族"を遠くから嗅ぎつける老夫のサリバン(サリー)や、同族である浪人のリー、同族の男とそうでない男の2人組との出会いがあった。長い旅の果てにリーと共にたどり着いた母の生家には彼女の母、つまりマレンの祖母が1人で住んでいた。母はずっと前に自ら精神病院に入ったという。
教えられた精神病院へ行くと、両腕を失った母の姿があった。まだ手があった頃に書いたという手紙を渡されると、母も同族であり食人の衝動から愛する夫と娘を遠ざけるために去ったことや、母親としてすべきことをできなかった悔いなどが綴られていた。じっとしていた母が突然マレンに食いかかる。自分と同じ癖を娘も持つことを知っていた母は、娘のためにできる唯一のことが娘を殺して解放してやることだと考えていた。母への失望や、人を食うことについて開き直っているリーとのすれ違いから、マレンは独りになることを選んだ。その時を見て数週間マレンを尾行していたサリバンが彼女に声をかけるが、マレンがサリバンを信頼できないことを告げるとサリバンは逆上して去っていった。
リーが妹のケイラのいる家へ帰ったしばらく後、マレンが彼を訪ねてきた。2人は宛もなく旅へ出る。車が壊れたところの町で2人は職を見つけて"普通に"暮らすことにした。ある日、サリバンがマレンを襲いに来た。リーが帰ってきて2人でサリバンを殺すが、その際にリーはサリバンに左胸を刺された。サリバンが持ち歩いている殺した人間の髪で編んだロープには、ケイラの髪も編み込まれていた。力なく倒れ込んだリーはマレンに自分を骨ごと食うよう頼み、マレンは応えて食らいかかった。
後に残ったのは、元から誰もいなかったかのように何もなく静寂に包まれた部屋。草原でリーを抱きしめるマレンの幻。


冒頭あたりで特番か何かが流れていたのってやっぱり重要だったんだろうか。組織的な犯罪があって、その1人のダウドという人がドナルド・マネスなる人物に金を渡す罪悪感で自殺したというような内容のやつ。誰もがマネスへの恐怖心なり欲なりで犯罪に加担していたけども、唯一ダウドにはそれより強い罪の意識があったように憶測されていた。

ググってみたけども特に何も見つからなかった。もしかしたら英語で検索したら出るのかもしれないけども、綴りも知らん。なので実際の出来事なのか俺はわからない。
ただ、人には言えないようなことを皆がする中で1人だけ違うことを思うって、人を食う人たちの中のマレンの構図と重なるようにも思える。まあ俺らの世界の出来事と重ねるなら例えば違法薬物とかアルコールの中毒者の葛藤を持ってくる方がしっくりくる気もするけども、仮に実在の資料を使った場面だったとしたら描写された時代的に持ってこれる資料で一番いいのがこれだったとかの事情があるかもしれない。
人喰いの中でマレンがこのダウドのように特異な存在になることをほのめかしていたとしたら、マレンは生きて自身の結末を覆したんだな。母まで殺しにかかってきてたのに。

でも、そのダウドって人が(方法が妥当であるかはさておき)死んだことの意味が自らの罪の償いだったとするなら、マレンは傷害とか遺体の損壊を償わなかったことになるな。未成年なら法的にはOKなのか知らんけど、人としてはどうかなってかんじはする。
まあだとしたらダウド云々のことはそんなに考えなくてもいいのかなあ。違うこと思い返してみよう。


孤独とか愛とか難しくてよくわからないけども、孤独の感じ方は皆だいたい同様らしかったのに対して愛の感じ方は皆ばらばららしくて、結果として孤独の支配力がえげつなかったなと感じる。

逃げるようにバスに乗り込んだマレンを眺めるサリバンがとてつもなく寂しそうな目をしていたのとか、人を食う男とそれを見る男の2人組からリーとマレンが逃げるように車で去る時に男が必死に追ってきたのとか、やっぱり数少ない同族が去っていくのって(思ってるより同族の人数は多いらしいけども)孤独なんだな。
たぶん、去ったこと自体が孤独なんじゃなくて、逃げるように去ったことがサリバンとかに孤独を与えたように思う。マレンがサリバンに襲われた時に言っていたけど、誰もサリバンとかマレンの言うことを信じてくれないのだそう。そういう、信頼されないことによる孤独が大きくて、ましてや互いに孤独を感じているはずの数少ない同族にまで信頼されないことがサリバンとかあの男の孤独をとてつもなく増幅させたと想像している。
リーはリーで、父親殺しと噂されて地元に居づらい状況になったために放浪していた。実は本当で、自分を殺そうとした父を逆に食い殺していたことは母や妹すら知らない。だから家族を除いて周囲も自分も互いに距離を取るようにしか動けない。
そういう、誰かと距離を詰めたくても詰められない、自分ではどうしようもできない孤独を皆共通して持っていたように思う。

一方で、愛することについての考え方はほとんど全然噛み合わなくて、与えるも求めるも上手くいっていなかった。
サリバンにとって、死んだ見知らぬ婆さんの肉をマレンと一緒に食ったことというのは血が乾いた時に隣にどうのこうのみたいな、要はとても特別なことだったよう。だから、言ってみればサリバンはマレンに1つの形の愛を抱いた。サリバンは自らの人生経験を糧にマレンに豊かな人生を与え、マレンに安らぎの眠りを求めた。高級寝具メーカーみたいな話じゃなくて、つまりは孤独を埋め合いたいと求めた。マレンは拒絶した。母にもリーにも失望中で独りになった後だったけど、初対面の爺さんが遠路はるばる数週間も尾行してくるとか気持ち悪かったから。
マレンの母は、彼女の元から離れることが愛だと思った。時を経て自分に会いに来た娘をせめて殺してやることが愛だと思った。マレンには違った。自分と同じ人間がいてくれたら自分がやってしまったことのある程度は起こらずに済んだかもしれないと思っていたし、人を食わない人間として生きていくようにがんばっていたから。
そうやって愛情はすれ違って、各々の持つ愛情のエネルギーはあらぬ方へ散逸していった。
しんどいなーって思います。

ただ、マレンとリーだけは上手くいった。
リーだって、抑えられぬ欲望に従って人目を憚って人間を食う生き方をマレンに教えようとしたところはある種サリバンと類似していると思うけど。でもサリバンとは違ってマレンと愛情を与え合った。
与えすぎず求めすぎずってことなんだろうか。しんどい時はただ黙って運転するみたいな、案外そんなもんでよかったのかもしれない。
マレンとリーで実は助けが必要なのはリーの方で、リーは自分を制御できるとヤク中の如く思い込んでいる、みたいな話もあったか。マレンの愛で解放してくれるかもな!みたいな話。実際2人でどこだったかの町に定住してからは人を食ってないみたいだった。ちゃんと解放されてたな。


てかサリバン、マレンにナイフ向けて「友達は叫ばない」とか言っていたけど、初めて会った時に「友達からはサリーと呼ばれている」と言った時の"友達"ってそんなかんじの関係性の人たちのことを指していたのだろうか。向こうには避けられているけど自分は一方的に友達であると信じているみたいな。
仮にそうならだいぶやべえな。あと自分のことサリーっていうのやめろ×2。

ノーランの『ダンケルク』ではまじでかっけえじいさんだったのにおめえ...。
いや役者ってすげえなあと思う。


食われた人間にちゃんと1人ずつ名前が設定されていたり、どんな生活をしていたかみたいな背景情報が描写されていたのが非常に印象に残っている。マレンの父が置いていったカセットテープにマレンが食った(あるいは食ったと思われる)人の名前が1人ずつ残されていたり、マレンとサリバンが食った老婦人の写真でなんとなく彼女の生涯のストーリーが描写されていたり、マレンが初めて会った時のリーが食った男は免許証でフルネームを確認した上に家を宿にした時に生活感のある家の中を映してみたり、リーが茂みで首を裂いて殺して食った遊園地の男には妻子がいたことが明かされたり。

視聴者が被害者の個人情報について教えられたことではなく、マレンが記憶のない幼い頃にやってしまったことまで含めて全部知ったことが重要だったのかもしれない。(サリバンと食った婆さんが家に置いていた写真の数々も、我々にだけ見せられたのではなくてマレンも見ていたのかも。)特にサリバンが食った人間の髪でロープを編んでいたのは、あれによってサリバン自身は食った人たちのことを覚えているけど俺らは知らないままという非対称な関係が生じる。だからやっぱり食った人のことをマレンとかが何らかの形で自分の中に留めているとこに何か意味があったように思う。

屠殺場の牛にも両親や兄弟姉妹や友がいるかもしれないっていう話をしていたけど、描写した意図としては共通していたりするんだろうか。しないんだろうか。
まあでも、殺される命とか食われる命はどれも殺されたり食われたりする瞬間に俺の目の前に現れるわけではなくて俺が今まで生きてきたようにどれにも彼ら固有のそれまでの生涯があって故に生涯の重みがあって〜みたいな、道徳の授業みたいなことを考える気分ではないのでとりあえずいいや。牛肉は好きです。

なんというか、結果というのは付き纏う。俺たちが結果のことを忘れても、結果は俺たちのことを忘れることはなくて、どこまでも付き纏う。物心もついていない幼子の頃に食い殺したベビーシッターの名前も、リーが殺して一緒に食った男に家族がいた事実も、どこまでも付き纏ってくる。ある形の愛を拒まれたサリバンみたいに。
もう少し聞き慣れた表現にすると、過去は消せないというやつか。
じゃあどうしたかというと、基本的には逃げまくったんだよな。時に明確に、時に旅の形式で。「基本的」でないところはサリバンの件で、リーが命を張って助けてくれたからもう付き纏われない形で解消できた。
マレンだけの話ではなくて、父親もそう。マレンが物心つかない幼子だった頃にやったことの責任は彼が負うのが相場かと思うが、彼は娘がもうやらないことに賭けて逃避することを選んだ。まあ娘が目の届かないところで急に背負いきれないどでかいことをやってしまったことには同情するが。とはいえ逃げたことには変わりない。リーもそう。後にマレンと出会うことになるあの放浪の旅は、人喰いの父親に殺されそうになって逆に殺したという結果から逃げる行為だった。
まあ、とはいえ他にどうしようがあったのかとは思う。もしマレンの母親がブッ壊れずにどこにも行かずにいてくれたら、父親はこの結果から逃げずに償おうとしてくれただろうか。もしリーが父親を殺したことは真実だとせめて妹のケイラにでも明かすことができていたら、放浪の旅に逃げずにいられただろうか。サリバンに追われたマレンのそばにリーがいてくれたみたいに、彼らのそばにも誰かがいてくれたら。


「ボーンズ・アンド・オール」つまり骨ごと全部食らうことは何か非常に特別なことだそうで、マレンのそばにはずっとリーがいる。そうであればいいなと思う。
じゅ

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