さいの

少女は卒業しないのさいののネタバレレビュー・内容・結末

少女は卒業しない(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

元々原作ファンだったというのが大きくて、特に深く考えず具体的な期待もせず臨んだのだが、「映像化する」ってこういうことなんだな... と圧倒された。ビビった。

まず、大胆な原作改変。
言語を跨いだ文学の逐語訳がほぼ不可能で、無理に決行したとしても元の魅力が全く損なわれてしまうのと同じように(あるいはより露骨に)、「小説」と「映画」には決定的な【翻訳不可能性】がある。
「原作に忠実であること」に中途半端に拘ってしまえばその溝に捕まってしまい、映像の強みも小説の魅力もどちらも蔑ろにしてしまうことになる(のだと思う)。
今作は原作との距離感が清々しくて、「映画でしか引き出せないもの」へと力強く向かっているのが伝わってきた。
原作者×監督の対談インタビューの記事にもあったように、「時間の流れを直列から並列に繋ぎ直す」「原作を読んで感じたことを映画として生み直す」というスタイル、作戦がめちゃくちゃハマって大成功していたと思う。
各々の「卒業」が並行するから、カタルシスやクライマックスが重なって、でもそれは互いに邪魔し合うような感情ではなくむしろ高め合うようなそれだから、観客は迷子にならない。
戸惑わない。
4人の少女の「卒業」のなかに折り畳まれている複雑な感情、言葉では表せない(言葉で表そうとしてしまえば全てが台無しになる)心の機微やうねりそれ自体へと、もはや否応なく向き合わされる。
そこまでの道があまりにも自然で、丁寧で、リアルで、残酷で、生々しかった。
観客に逃げ場がなかった。
それは、何度か強調したように、「言葉ではない」仕方ではたらく力学だからだ。
言葉は確かに、ときにあまりにも強力にひとに届いてしまう。
だけど同時に、そこには簡単に否定されてしまう契機が常に既に潜んでいる。
どんな論理も、ある枠のなかでのみ作動するから、それはOSを変えてしまえば忽ち否定されうる。

映像はその否定性に抗する。

そこで描こうとされるのは、クソみたいな比喩やあまりにも頼りない論理ではなくて、嘔吐しかねないほどの生々しい「それ自体」であって、それはもはや正当性など求めていない。
今作では、各々の少女に「卒業」をもたらす閾値を超える出来事は常に非言語的な仕方で描かれた。
それは、あの花火は、あの本は、あの歌声は、あの嗚咽は、物質的で前言語的なそれ自体であって、自らの正当性について全く無関心である。
彼女たちにそんな余裕など無いのだ。
自分に襲いかかる卒業という試練に、儀式に、冷静に向き合って言葉でとりあえずの折り合いをつけることなんてできないのだ。
まだ物語化される前の、言葉で抽象的に語るのを拒絶するような凄み。
それが映画を貫いていて、このクソみたいな感想文でこの奇跡みたいな映画について(言葉で)語ることをひとつの「罪」にすらしうる。
僕が「あの表情が〜」と言った途端に、もうその瞬間に、まさにその表情が蔑ろにされているのだ。
だから、「論じる」ことは諦められなくてはならない。
観ましょう、としか言えない。
正当性を初めから捨てているが故にいかなる否定性も入り込む余地のないあの圧倒的な感情を、僕たちがもう滅多に体験することのできないそれの美しさを(と言った瞬間に僕は非礼を働いているのだ)思い知るために。
さいの

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