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フィリピンパブ嬢の社会学のccのレビュー・感想・評価

フィリピンパブ嬢の社会学(2023年製作の映画)
1.6
つまらない。最初から「修論のためにフィリピンパブを調査するはずが嬢に入れ込んでしまって結婚するハメになり、モラトリアムから冷めた学生の話」とわかってればこんな幻滅もしなかったろうが、タイトルに「社会学」と入れておきながらこれではつまらんとしか言えない。学問に明るくない人にこんなものが社会学と思われてはいい迷惑である。劇中で指導教員から「比較文化論」というワードも出ているのにこのタイトルなのである(比較文化論としてどうなのかは専門外なのでわからない)。それっぽいものが何でもかんでも「社会学」にされスティグマ化する危うさが指摘される今日に、仮にも社会科学系の修士を出た人間が関わる映画として全くふさわしくない。これでは安い「社会学」言説への加担である。

原作がありそれが著者の実体験に基づいている以上、明らかな演出部分を除けば展開については文句を言っても仕方がない(一応断っておけば演出であろう部分は尽く面白くない)。半ば人身売買を承知で日本へ出稼ぎに来た彼女らの生き様に力強さ、たくましさを翔太(=原作著者)が感じたことは事実なのだろうし、翔太が本で見た知識と私達は違うのだ、と渦中の彼女に劇中で言わせるくらいの体験ではあったのだろう。とはいえ研究を終え、最初に語る内容が「彼女らは可哀想な存在ではなく、たくましい」では研究の精度を疑わざるを得ない。指摘すべきは21世紀にてなお横行する人身売買ビジネス、偽装結婚により発行される日本のビザ、その中で四苦八苦する彼女らの実態そのもののはずである。縋るように教会に集うフィリピン系女性、出稼ぎによって得た外貨のみで建てられたフィリピンの実家など、掘り下げれば興味深そうなシーンがあるものの、メインがただのラブストーリーなので触れられることはない。私が気になるのはそっちなんだが。

外貨のみによって建てられた実家の話に関連して、既に出稼ぎ先としての地位を下げ、インバウンドに頼りきりの我が国のことを考えてしまう。「ジャパンパブ(あるとしたらゲイシャとかになるのか?)嬢の社会学」が語られる日もさほど遠くないのではとどうも気分が暗くなる。「フィリピンには職がない」という閉塞感(職はもちろんあるのだろうが、稼げないし階層移動もできないということなのだろう)は、既に比較文化の文脈を越えているように思うのである。万が一、ジャパンパブ嬢の「社会学」で「日本から来た彼女らは強く、たくましく、ときに可愛いのです」なんて締められ方をしたらキレてしまうが。搾取を指摘せずにいい話風に矮小化するとはそういうことではないか。

しかし実体験に基づくだけはあり、先程も述べたように興味深い部分は少なくない。フィリピンパブの調査に息巻くも学生が故に速攻で資金が尽きた翔太は「同伴」ではない形で外でミカに会うことになり、ショッピングモールのフードコートや無印良品なんかに赴くわけだが、日本人の同業からすればこんな客は「イタい」奴に映るように思う。しかしたった月2回の休み、さらには言語の壁に阻まれるがために公共交通機関の利用もままならないミカにとっては、お金のない翔太が見せられるほどの世界でも楽しいものになる。翔太が「イタい」奴にならないほどのとんでもない搾取が浮かび上がってくるのである。フィリピンパブでは太客のように登場する近藤芳正も、「同伴」先は牛角かそこらと変わらないような焼肉屋であることからもこの搾取が伺える。息子の彼女として現れたミカを見てヒステリックになった翔太の母親の姿なども「リアル」なそれなのだろう。フィリピンの女性を偏見も差別もしないが、結婚となると話は別だという一見ニュートラルな差別。私も地元でこういう仕草をする人間を多数見てきた。この差別のレトリックは大体フィリピン系の彼/彼女らの家族、つまり本国にいる家族との関係などを憂慮する日本人の親という構図に支えられるものである。結果的に翔太は、一時帰国したミカが家族に「タカられて」いる様を見た上で、偽装結婚の解消によるミカのビザの失効を自身との結婚で賄うことになり、差別の温床として考えられているステレオタイプを自分から強化してしまっているのである。本人たちの結婚とその後の生活にとやかく言うつもりはないが、やはり美談として語られるには指摘すべき点が語られてなさすぎるのである。映画HPに寄せられた論客のコメントにも眉をひそめてしまう。何より製作に協力した(そしておそらくはこの作品の舞台でもある)春日井市はどういうつもりなのだろうか。そこにある搾取を市として認めながら、渦中のラブストーリーに焦点を当てた映画を作ることに協力するのはあんまりではないか。
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