くまちゃん

ヴィーガンズ・ハムのくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

ヴィーガンズ・ハム(2021年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

菜食主義は古代まで遡るほど長い歴史を持つが肉食を避ける者たちをベジタリアンと呼称し始めたのは19世紀に入ってから。さらにヴィーガンという言葉は1944年、ヴィーガン協会設立者の1人であるドナルド・ワトソンによって造語された。
「人間は動物を搾取することなく生きるべきである」
このヴィーガンの定義は1951年に定められ、思想の拡散は今もなお継続されている。
マハトマ・ガンジーは「食事は必要最低限であるべき」との考えから簡素な食事を好む菜食主義者だった。ガンジー自身が古代インドに起源を持つアヒンサーを体現していることからもヴィーガニズムは善悪や健康の問題ではなく個人の思想に由来するものだとわかるだろう。
信仰は個人の自由であり、食べるものも個人の自由でなければならない。
しかし昨今ヴィーガンによる過激な行動が物議を醸し、一部ではテロに等しいと指摘されている。2018年頃からヨーロッパ諸国で肉屋や鮮魚店などが過激派ヴィーガンに襲撃される事件が多発している。
窓ガラスの破壊、スプレーでの落書き、血液に似た液体による汚損、時には放火された例もある。
その一方で、ヴィーガンに対する偏見や差別、ヘイトクライムといった真逆の現象も世界中で発生している。ヴィーガンであることを理由に解雇や不採用となったり、ヴィーガンのイベントで動物性のものをわざと食べたりと陰湿な嫌がらせはお互いの溝を深くするばかりだ。

今作では過激なヴィーガンの問題行動と、それに反するヘイトの両方をユーモアを交えてシニカルに痛烈に描写している。

ヴァンサンとソフィアは肉屋を経営している。ヴァンサンは職人気質で少しでも上質な肉を提供しようと客を待たせてで  も締めて締めて締めまくる。客はそこまで求めておらず、そんな夫にソフィアも辟易としていた。町の小さな精肉店。ヴィーガンブームの煽りを受け経営は芳しくない。そんなある日、窓ガラスが叩き割られ武装した青年たちから襲撃される。過激派ヴィーガンによる肉食への抗議活動。ヴァンサンとソフィアは心に大きなダメージを負った。特にソフィアは日々の鬱憤がジワジワと滲み出てくる。ついに口にした離婚の文字。同業者であるマルクとステファニーの夫婦は二人に対し無自覚な嫌味でマウントをとってくる。これもソフィアには耐え難い屈辱であった。
ある日ヴァンサンは過激派ヴィーガンの1人と偶然遭遇し、その場の勢いで轢き殺してしまう。事故ではない。明らかな殺意を持った故意による殺人。目撃者がいなかったことが不幸中の幸い。この死体を早急に処理せねばならない。ソフィアは古今東西の猟奇殺人犯を紹介する深夜番組のハードウォッチャー。ヴァンサンへアドバイスし死体をバラすこととなる。職場には肉を解体する道具も場所も揃っている。考えてる暇はない。全身を血に染めながら初めてとは思えないほど慣れた手付きでパーツを切り離していくヴァンサン。眼前に転がるは最早人ではない。家畜同様ただの肉塊である。
作業を終えたヴァンサンは死んだように眠った。今日は色々あった。肉の始末は明日にしよう。そんな事をぼんやり考えながら瞼が落ちる。死体を冷凍庫に保管して。
翌朝ヴァンサンが起きるとソフィアはすでに売り場に立っていた。朝一で常連が肉を買っていってらしい。だがここで異変に気がつく。昨夜保管したはずの死体がない。背筋が凍り冷たい汗がその額を濡らす。ヴァンサンの予想は不幸にも的中した。豚肉と勘違いしたソフィアが売ってしまったのだ。さらにその客は圧倒的な美味さに追加購入を求めてきた。菜食主義者は体や便のにおいが抑制される。ヴィーガンの肉は臭みが少なく人肉による多少のクセがプラスの意味でアクセントになっていたのかもしれない。この成功体験はヴァンサンとソフィアを鬼畜道へと誘引していく。

小さな町だ。噂は瞬く間に広がり閑古鳥が常駐していた店頭には連日行列ができていた。ヴィーガンの肉をイラン豚だと偽り人肉を販売するヴァンサンとソフィア。だがここで現実的な問題に直面する。売れれば商品はなくなる。なくなれば補充しなければならない。ソフィア主導のもと、二人はヴィーガン狩りを決行する。
獲物の選別は肉付きやストレスの有無などプロらしい目線で定めていく。
しかし、決行の刻、ヴァンサンが我に返りそれは未遂に終わる。失望の色を隠せないソフィア。二人の仲に決定的とも思える傷が入る。だがソフィアは諦めていない。先に帰宅したヴァンサンを煽るかのように半ば強引に若い男性を自宅に招き入れる。愛する妻への隠れた欲情が激しい嫉妬と言う名の殺意に変わる。この性的挑発はヴァンサンの倫理境界線を軽やかに跳躍してくる。気がつけば、そこには無惨な死体が転がっていた。死んでしまえばそれは人ではない。ただの肉であり商品なのだ。

カニバリズムを題材としながらただのホラーやスリラー、スプラッターにおさまらない。殺人に積極的な妻と消極的な夫を対比することでヴァンサンの殺人へのハードルが次第に下がっていく気持ちの変容を丁寧に描いている。また秘密を共有することで二人の冷めきった夫婦仲が情熱的に修復していく様も見事。
敵に定め、獲物として捉えていたヴィーガンに対し、娘の彼氏からの実直な謝罪や過激派組織への潜入と襲撃を受け、ヴィーガンという枠組みではなく人を見る事を思い出したヴァンサンとソフィア。
彼らは法で裁かれ、ワイドショーのネタにされ二度と娑婆へは出られないだろう。だが彼らは身をもって我々に教えてくれたのだ。争いでは何も解決しない。他者への理解。多様性が必要なのだと。人は理解できないものを排除し攻撃したがる。指先で他者を傷つけることのできる現代でそれは顕著。極端に植物性ばかり摂取すれば栄養が偏り体調を崩す可能性がある。先人たちは革命や改革のために肉を食べなかったのではない。好き嫌いや健康のためでもない。あくまで非暴力の思想が根底にあるからだ。菜食主義を貫くには道徳的な基礎が必要である。つまりそれは押し付ける必要も、排除する必要もない。相容れないならば両者が関与しない世界を構築するしかない。それは非現実的であり、分断はさらなる争いの元凶となる。肉食と菜食、この両極端な食事の違いは幾度となく繰り返される宗教戦争のように終わりのない人類存亡に関わる大きな課題なのだろう。
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